朝。アラームが鳴る前に目が覚めた。カーテンの隙間から漏れる光は弱い。枕元の時計を見ると、デジタルの数字は七時前だった。起きるにはまだ早い。もう一度寝ようと布団を被るけど、眠気はすぐに消えてしまった。仕方なくベッドの上で寝返りを打ちながら今日の予定を思い浮かべる。
今日の講義はゼミだけでそのあとはコンビニのバイトが入ってる。じゃあまだ起きなくていいかな、そんな怠惰な考えに誘惑されそうになったがレポートの提出期限を思い出す。そうだ、あれは論考レポートだから参考文献とか探さないといけないんだった。教授は厳しい人だし下手なものを出すと単位をくれないかもしれない。あれこれ考えているうちに段々と頭が覚醒してきた。資料集めは午前中にやって、午後はゼミとバイト、夜にレポートを書いて明日以降に仕上げれば間に合うだろう。
よし、と気合いを入れて起き上がる。大学入学をきっかけに一人暮らしを始めて三年目。すっかり慣れた動作でケトルに水を入れスイッチを押す。お湯が沸くまでの間に洗面所に行って顔を洗った。タオルで拭いながら鏡に映った自分の顔を見る。どこにでもいそうな普通の女の顔。化粧っ気のない顔には寝不足のせいでうっすら隈が出来ていた。
ひどい顔してるなぁ……なんて自嘲する。ここ数日はあまり眠れていなかった。理由ははっきりしている。
先週、酒に酔った勢いで風間くんに告白した。一方的に。
***
同級生の風間蒼也くんとは大学のゼミが同じで研究テーマも同じだった。学科が違うから普段はあまり関わることはないけれど、週に一回行われるゼミではグループワークを行うこともあるため、必然的に話す機会が増える。真面目な性格で学業成績もいい、ボーダー隊員としても優秀な彼は同期の間でも一目置かれていた存在だった。ボーダーの任務などでたびたび欠席するため研究課題のレポートを手伝っているうちにご飯を食べに行くようになって。いつの間にかゼミがある金曜日は研究のフィードバックをした流れで一緒に帰るようになっていた。一見クールな雰囲気だけど意外とよく食べるギャップが面白くて。たまに見せてくれる笑顔に心惹かれたのはいつの頃だっただろうか。気がつけば彼の存在が私の中で大きくなっていた。
そして先週の金曜のこと。
その日はちょうど私の中間発表があった日だった。以前から進めてきた研究内容を順番に発表する。とても緊張したけど、しっかり準備していたおかげで何とか無事に終えることができた。教授からの講評を聞いて、これから先の方向性を決めることができたと思う。発表を終えた後の打ち上げは緊張から解放された反動もあって盛り上がった。ゼミのメンバーたちと一緒に飲み食いしながらお互いの研究内容について語り合ったり今後の展望を話したりした。とても楽しかったのだけれど―――
打ち上げが終わった帰り道。ほどよく酔っぱらっていた私はふわふわとした心地よさに包まれながら歩いていた。隣には風間くんがいる。二次会はカラオケに行くことになっていたけれど、明日は朝からバイトが入ってて早く帰らないといけなくて一次会で抜けることにした。すると風間くんも用事があるらしく同じタイミングで抜けようとしていたので、せっかくだから途中まで一緒に帰ることになったのだ。
「あー……」
夜風を浴びると少しだけ酔いが醒めていく。だけど気持ちいい風に吹かれていると再び頭がぼんやりしてきた。
「駅まで歩けるか?」
風間くんは今日お酒を飲んでいなかったみたいでいつも通り冷静だ。
「んー、だいじょぶ」
呂律が回っていなくて自分でもちょっと笑ってしまう。
「……まったく」
呆れたように呟きながらも、私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれていた。街灯に照らされて伸びた影は二つ分。いつもなら並んで歩くときはもう少し距離が空いているはずなのに、今日は肩が触れそうなくらい近くにいる。いつもより近い距離感に、彼の体温が感じられるような気がしてドキドキしてしまう。風間くんに惹かれていることは自覚しているけど、望みは薄いだろうと思ってる。私のことをそういう対象として見ていない気がしているからだ。それでもやっぱり好きな人とは少しでも長い時間一緒に居たいと願ってしまう。アルコールで緩んだ思考はどんどん欲張りになっていく。このまま、どこか遠くに行けたらいいのに。そんなことを考えてしまうくらいには舞い上がっていたのかもしれない。
歩き慣れた道を二人でゆっくりと進む。駅に近づくにつれて次第に人通りも多くなってきた。風間くんはこのままボーダー本部へ向かうらしい。だからもうすぐお別れだ。
あと少し、あとちょっと。そんなふうに足を進めながら、そっと横目で彼を見る。夜の闇の中でも澄んで見えるルビーの瞳、通った鼻筋に薄い唇。こうして近くで見ると改めて思う。やっぱりかっこいいなって。
「おい」
「えっ」
突然、強い力で腕を引かれた。同時にすぐそばを自転車が走り抜ける。進行方向と逆の方に向かって引っ張られたものだからバランスが崩れてよろけてしまった。風間くんが肩を掴んで支えてくれたおかげで倒れずに済んだけど、危なかった。
「あ、ありが……」
お礼を言いながら顔を上げると、真横に風間くんの顔があって。息がかかるほどの至近距離に驚いて体が石になったみたいに固くなる。
「気をつけろ。お前は酒が入るとすぐにフラつくだろう」
淡々と注意されるけど、今はそれどころじゃない。だって、こんなに近くに風間くんの顔があって、腕を掴んだ手は大きくて。心臓がうるさいくらい跳ねている。
こんなの意識するなっていう方が無理だよ。顔が熱い。多分真っ赤になっていると思う。
そんな私の様子に気づいたのか、風間くんは怪しげな視線を送ってくる。
「さっきより顔が赤いぞ。本当に大丈夫なのか?」
どうしよう、どうしたら、何て言えばいい? お酒のせいじゃないってバレてしまう。 いや、いっそバレてもいいのか? ぐるぐると混乱していると、肩がふっと軽くなった。それと同時に離れていく温もり。
待って、もっと――そんな想いが込み上げてきて思わず手を伸ばす。追いかけるように伸ばした指先が、風間くんの手に触れた瞬間、電流が流れたみたいに全身が震えた。触れた指先から熱が広がっていって心臓の音が更に加速していく。
胸の奥底から溢れ出す感情を抑えることができなかった。
好き。好きです。風間くん。
ぎゅっと握ると風間くんの体がビクッと震えた。
「……!」
風間くんが動揺したのがわかった。普段はポーカーフェイスを保っている彼でもさすがに驚いたようだ。そりゃそうだろう、いきなり手を握られたら驚くに決まってる。瞼が大きく見開かれていて、切れ長の瞳が揺れているのが見えた。それを目の当たりにしてようやく自分の行動に気づく。
「あっ……! あ、あの、これはっ、その……ち、違…… いや違わないんだけど……!」
慌てて言い訳しようとするけれどうまく言葉が出てこない。それどころかますますパニックになって変な汗が出てくる始末だ。ああもう、これじゃあまるで酔っ払いの奇行じゃないか。恥ずかしくて情けなくて穴があったら入りたい、いやむしろ埋まりたい。
「ごめん!」
これ以上この場にいることに耐えられず逃げ出した。とにかく一刻も早くその場から立ち去りたかった。呼び止める声は聞こえないふりをして改札を抜けた。
***
これが一週間前のこと。あれからずっと後悔している。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。酔っていたとはいえ、あれはない。風間くんにどう思われたかなんて考えただけで死にそうだ。
これからどんな顔をして会えばいいのかわからない。だけどこのまま何もなかったことにして自然消滅になるのは嫌だと思っている自分がいるのも事実だった。我ながら矛盾してるとは思うけど、自分でもよくわからないのだ。結局どうすることもできないまま時間だけが過ぎてしまった。
風間くんとはこの一週間一度も顔を合わせていない。あの日、「ちゃんと家に着いたか?」と短いメッセージが届いていた。告白のことは触れずにただ私の身を案じてくれているだけの優しい言葉。それが余計に心苦しかった。既読スルーするわけにもいかず返信はしたものの、一言だけしか送れなかった。
そして今日はゼミの日だから顔を合わせることになる。気まずくてしょうがないし、どうしようもないくらい緊張している。
「はぁ……」
溜め息を吐きながら身支度を整える。朝食も化粧も髪型も適当に済ませて家を出ようとした時、スマホが鳴って着信を知らせる。画面を見るとそこには「風間くん」の文字が表示されていた。
「……え!?」
突然のことで驚きすぎて危うくスマホを落としそうになった。
な、なんで、なんでこのタイミングで電話? しかもこんな朝に!? で、出る? どうしよう、でもここで出なかったら後悔する……気がする。
バクバクと鳴る心臓を抑えながら恐る恐る通話ボタンをタップする。
「はい……」
『俺だ。おはよう』
「お、おはよ」
一週間ぶりの風間くんの声。いつも通りの落ち着いたトーンだ。私だけがこんなに意識している。
『朝早くに悪い。急な任務が入ってしまい今日のゼミは欠席する」
「へ? あ、うん」
今までだって欠席することがあったけど、電話してきたことなんてなかったのに。どうして今日に限って連絡してくるんだろう。風間くんの意図がわからず戸惑ってるうちに、淡々と話を進めていく。
『夕方には終わる予定なんだが、今日時間あるか』
「えっ」
『話がしたい』
「っ……」
どくん、と大きく鼓動が鳴ると同時に息が詰まった。風間くんが私と話をしたいと言っている。話ってこの間のことだろうか。一気に血の気が引いて指先が冷たくなっていくのを感じる。
「え、と。今日は十七時からバイトが入ってて」
声が震える。
『バイトは何時まで』
「二十二時だけど、遅いよね?」
『問題ない。時間を取らせるつもりはないから、終わったら連絡してくれ』
「え、あ、ちょっ――」
用件だけ伝えると風間くんは早々に電話を切ってしまった。無音のスマホを握りしめたまま呆然と立ち尽くす。
「何それ……」
思わず独り言が漏れる。待って。どうしよう。心臓の音がうるさいくらいに鳴っていて苦しい。まさかこんなことになると思っていなかったから頭が追いつかない。とりあえず落ち着こうと思って深呼吸をするもなかなかうまくいかない。風間くんの低くて静かな声が耳に残って離れない。
話ってこの前のことだよね……? 振られるんだろうか。せっかくここまで仲良くなったのに。考えるだけで泣きそうになる。
ふらつく足取りでなんとか家を出て大学へ向かう。講義を受けている間もずっと上の空で、内容が全然頭に入ってこなかった。バイト中は仕事に集中しつつも終業時間が近づくにつれてソワソワと落ち着かなくて、時計ばかり見ていた。大きなミスはしなかったものの、店長からは体調が悪いのかと心配されてしまった。
そしてようやく訪れたタイムカードを切る瞬間。ロッカールームで着替えながらスマホを確認すると風間くんからメッセージが届いていた。
《店の前にいる》
その文字を見た途端、息を飲んだ。どくんどくんと大きく脈打つ心臓を押さえて深呼吸する。ゆっくりと裏口から外に出ると、少し離れた位置に人影が見えた。見慣れたシルエット、キャップを被っていてもわかる整った横顔。間違いなく風間くんだ。
近づく足音に気づいたのか風間くんがこちらに顔を向ける。私の姿を見つけると、小さく手を上げた。一週間ぶりに間近で見た彼は相変わらずかっこよくて、でもどこか雰囲気が違っていて。私に向ける眼差しはいつもと変わらないのに、まるで知らない人みたいで落ち着かない気持ちになる。
「お疲れさま」
「お疲れ、さま」
風間くんが歩み寄る。面と向かって話すのはあの日以来で心臓が早鐘打ってるし手が汗ばむ。でもそれ以上に、今すぐ逃げ出したくなるほどの緊張感があった。風間くんは私の顔をじっと見つめると静かに口を開いた。
「ひどい顔だな」
「うぐ」
いきなりそんなことを言われて言葉に詰まる。確かに顔色は良くないし隈もできているけど。何も言えず黙っていると、ふっと息を吐いたのがわかった。
「行くか」
そう言って歩き始める彼の背中を追うようにして後に続く。風間くんの少し後ろを歩く。隣に並ぶ勇気はなかった。手を伸ばせば届く距離だけど、今の私にはその距離が果てしなく遠く感じた。
空は曇っていて月も星も見えない。街灯に照らされたアスファルトがぼんやりと光っているだけだ。そんな中、私たちは一言も交わすことなく歩いていく。その間も絶えず胸の鼓動を感じていた。まるで全身が心臓になってしまったみたいに激しく脈打っている。
しばらくすると公園が見えてきた。住宅街の中にある公園だ。昼間なら子供たちが遊んでいるだろうが、さすがに夜となると誰もいない。風間くんに続いて足を踏み入れると、二人分の足音が夜の空気に溶けていく。夜の公園は静かで、時折吹く風が木々を揺らす音だけが聞こえる。どうやらここが目的地らしい。ベンチに腰掛けた彼に促されて隣に座る。
「先週のことだが」
びくりと肩が震える。唐突に話が始まった。緊張のあまり喉はカラカラに渇いているのに、手のひらは湿っていた。膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめて次の言葉を待つ。
何を言われるんだろう。やっぱり迷惑だった? それとも気持ち悪いって思われた? もう友達じゃいられないかもしれない――そんな恐怖が押し寄せてくる。
「別れ際、俺に言ったことは覚えてるか?」
「……うん」
酔ってはいたけど記憶はしっかり残っていた。それを改めて確認されると気まずいものがある。俯いたまま顔を上げることができなくて、まるで死刑宣告を受けるような気分だ。
「あの時、よく聞こえなかったからもう一度言ってくれないか」
「え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。驚いて顔を上げると、真剣な表情をした風間くんと目が合う。聞き間違いじゃないなら今彼はなんて言った?
「もう一度言ってくれ」
幻聴じゃない。言い聞かせるように、再度同じ台詞を口にする。
は? え? 聞こえなかったって言った? いやいやいやいや聞こえてたよね? ビックリした表情してたもの!
頭の中で疑問符が飛び交い混乱する。口をパクパクさせていると、風間くんが急かすように名前を呼んだ。早くしろと言わんばかりにじっと見つめられる。よく見るとその口角はわずかに上がっていた。
「あ!」
ぶわわっと血流が巡る感覚に襲われて一気に顔が熱くなる。
「う、嘘! 嘘ついてる!」
咄嗟にベンチから立ち上がって抗議する。私が狼狽えてる姿を見ても平然としている。それどころか楽しげな笑みを浮かべてさえいた。
「嘘はついていない。車の音で聞こえづらくてな」
「そんなっ、でも、なんて言ったか察しはついてたでしょ!?」
「さあ。どうだろうな」
「それ、ずるい」
「じゃあ言い逃げはずるくないのか」
「っ!」
痛いところを突かれて言葉が続かない。そうだ。私は逃げた。酔った勢いで一方的に告白して返事を聞かずに立ち去った。置き去りにされた風間くんの気持ちを考えずに。
「……言い逃げした仕返しってこと?」
座ってる風間くんを見下ろす形になって、俯きがちに問いかける。風間くんはふっと表情を和らげたかと思うと、腕を伸ばして私の手を掴んだ。ビクッと体が強張る。あの時と逆の状況だ。
「違う」
掴んでる手に力が込められて、そのまま風間くんも立ち上がった。視線がぐっと近くなって、また心臓がうるさくなる。
「酒飲んでて、周りも騒がしくて、聞こえた言葉通りの意味で受け取っていいのか判断できなかった」
「……」
「あの時、お前の言葉は本心だと直感的に思ったんだが……違ったか?」
そう訊ねる声が優しくて胸が苦しくなる。握られた手からは熱が伝わってきて、期待と不安が入り混じった感情が込み上げてくる。風間くんが一歩距離を詰めてきた。思わず後退りそうになる足を必死に堪える。
「……違わない」
小さな声で答えると、風間くんの口元が綻んだように見えた。声が震える。心臓が口から飛び出しそうなくらい脈打っている。それでも伝えなきゃ。今度こそ、逃げずに伝えないと。
「風間くんが、好きです」
口にした言葉は夜風に攫われていった。けれど目の前にいる彼には届いたはずだ。その証拠に、風間くんの頬に赤みが差していくのが見えた。
指先から伝わる熱が全身に広がって身体中が熱くて溶けてしまいそう。心臓は壊れてしまったみたいにドキドキして、頭がくらくらする。
私を見つめる風間くんの瞳の奥には確かな炎を宿していた。そしてそれが何を意味しているのか理解するよりも早く、背中に腕が回った。