indigo elegie

待ち人、眠り人

 放課後の忍術学園に、橙色の夕日が長く影を落とす頃――。

 校舎の白壁に斜陽が差し込み、瓦屋根を温かな赤銅色に染め上げている。季節は晩秋、空気は澄み切って肌寒く、風に舞う銀杏の葉が黄金の雨のように舞い散っていく。遠くから聞こえる下級生たちの声も、夕暮れとともに次第に遠のいていく。

 そんな静寂を、鋭く張りのある声が切り裂いた。

「土井半助! 決闘を申し込みに来た!!」

 その声は、晩秋の澄んだ空気を震わせ、校舎の向こうまで響き渡る。声の主はタソガレドキ忍軍の諸泉尊奈門だった。逆光の中でその姿がくっきりと浮かび上がり、夕日の光が彼の輪郭を金色に縁取っている。横顔には決意の影が色濃く落ち、その眼差しには迷いのない意志が宿っていた。

 土井半助は歩みを止め、腕に抱えていた書類を少し持ち直した。肩をすくめ、静かに息を吐く。またか、という諦めにも似た響きがその溜息に込められていた。

「尊奈門くん……」

 その名を呼ぶ声には、苦笑が滲んでいる。決闘を受けるなら、それなりに時間を確保しなければならない。しかし今日ばかりはそうもいかなかった。職員会議の後には新しい演習コースの下見が控えている。日が短くなりつつあるこの季節、戻る頃にはすっかり夜の帳が降りているだろう。

 静かに振り返ると、尊奈門が真剣な眼差しでこちらを見つめていた。爛々と光る瞳には戦意と意地が滲み、その眼差しは研ぎ澄まされた刃そのものだった。彼の立ち姿には微塵の迷いもなく、全身から闘志が滲み出ている。

「悪いけど、これから出なくてはいけなくて。戻りは遅くなるだろうから今日はやめないかい」

 できるだけ柔らかく告げたが、尊奈門は即座に食い下がった。

「ならば、終わるまで待つ」

「ええ~……」

 夕風がそっと二人の間を通り抜ける。土井は思わず情けない声を漏らし軽く後頭部をかいた。困ったものだ、とため息をつきたくなるがその頑なな姿勢にはどこか微笑ましさも感じる。

 尊奈門のこの一本気さは、手を焼くばかりではあるものの、完全に嫌になれないのが不思議だった。

 彼のことだ。本当に日が暮れるまで、いや、下手をすれば夜通しでも待ち続けるつもりなのだろう。そう思うとますます面倒になってくる。秋の夜風はすでに冷たく、鍛えた身とはいえ外で待たせるのは気が引けた。

「待つのは構わないけど、冷えるよ。長屋で待ってて」

  さりげなく促してみるが、案の定、尊奈門は即座に拒否する。

「いや、ここで待つ!」

 迷いのない声に土井は思わず苦笑した。その頑固さと一本気な性格は呆れるほどに揺るぎない。強さを示すことに真剣であるからこそ、余計な駆け引きをしないのかもしれない。そう考えると、妙な安心感すら覚える。これほど真っ直ぐな男も珍しい。

「山田先生は出張でいらっしゃらないから、長屋は空いてるよ」

 試しにもう一押ししてみると、尊奈門の表情がわずかに揺らいだ。即答を続けていた彼が、初めてほんの少しだけ迷いを見せる。彼は自分が部外者であることを弁えているのだ。だからこそ、他人の仕事場兼私室に踏み込むことに僅かな躊躇いを覚えたのだろう。

「……いいのか?」

「君はおとなしく待てるようだし。いいよ」

 案の定、尊奈門の眉がピクリと跳ねる。

「なんだその言い方は!」

 けれど、言い返すのもそこそこに彼は腕を組み少し考え込んだ。その仕草には意外なほどの思慮深さが窺える。普段は猪突猛進に見える彼も、きちんと筋道を立てて考える一面があるのだ。

「……仕方ないな、じゃあ長屋で待たせてもらう」

 尊奈門にしては、ずいぶんと素直な決断だった。どこまでも意地っ張りなくせに納得すればあっさり受け入れる。そういうところが彼らしかった。

(素直で真っ直ぐなのは、確かに長所だ。だが、忍びとしてはどうだろうな)

 心に浮かんだ考えを、土井はそっと噛み締めた。感情を隠そうともせず、喜怒哀楽をそのまま表に出す。それは人としての魅力ではあるが、忍びの道においては決して強みとは言えない。忍びとは、己を欺き、他者を欺く生き方でもある。どんなに腕が立とうとも、あまりに純粋すぎる心は時に命取りとなる。

(……とはいえ、今の世において生き残る忍びの在り方も一つとは限らないか)

 ふっと口元に苦笑が滲む。忍びとしての理想を語るならば、自分自身もまた、その型にはまらぬ者の一人だ。

 風が吹き、銀杏の葉が舞い散る。そのうちの一枚が尊奈門の肩に落ちたが、彼は気にも留めず腕を組んでじっとこちらを見据えている。迷いのない眼差し。そのひたむきさに土井はどこか懐かしさを覚えた。

 秋の夕暮れは、空を紅く染め上げながらゆっくりと夜の帳へと溶け込んでいく。

***

                             

 秋の夜は静かに更け、風が木の葉をさらっていく。冷え込んできた空気が肌を刺すようで、虫の音さえ遠くなった頃、土井半助は長屋の廊下を歩きながら、小さく息をついた。

(すっかり遅くなってしまった。尊奈門くんは怒って帰っているかもしれないな)

 演習コースの下見は予想以上に時間がかかった。新設予定の罠や仕掛けの配置を確認し、安全性を検討しているといつの間にか夜も更けていた。

 歩みを緩め、そっと戸を開けると灯された火鉢の淡い橙色が障子にぼんやりと映っていた。闇に沈む長屋の静けさの中で、その温かな光だけがぽつりと存在を主張している。

 視線を巡らせると、部屋の隅に尊奈門がいた。板張りの床の上、忍び刀を抱くようにして眠っている。武器を手放さずにいるのに、その寝顔には微塵の警戒心もない。ここは彼の拠点ではなく、味方の陣地でもないのに――。

 土井は少し眉を寄せた。決闘のあとは気絶しているせいで寝顔を見る機会は多いが、こうして静かに眠る姿をじっくり眺めるのは初めてかもしれない。

 よく見ると、袖の隙間から覗く腕に擦り傷があった。目を凝らせば、他にも細かな傷が点在している。刀の柄を握る手の擦れ、壁を伝う指先の傷、無理な姿勢を続けた末にできた青あざ。

(まさか、忍務帰りにそのままここへ来たのか)

 だからこそ、眠気に抗うこともできず、意識を手放してしまったのかもしれない。忍びであるなら、決して油断してはならない場所で、こうまで無防備になるなど――。普段の尊奈門なら考えられないことだった。

 土井はそっと近づき、膝を折った。間近で見ると、疲労の色が濃い。顔色も悪く、目の下には薄い隈ができている。普段の尊奈門なら、たとえ眠っていたとしても気配に敏感に反応するだろう。それが、今は何の反応もない。

 よほどの疲労か、それともここが安心できる場所だったのか。

(なぜ、ここまでして決闘にこだわる)

 文房具で負けたことが屈辱だとしても、力量の差は彼も嫌というほどわかっているだろう。それだけでは説明がつかないほどの執着。まるで、何かを確かめるような――。

 ふと、手を伸ばした。近くに置いてあった羽織を取り上げ、そっと彼の肩へ掛ける。叩き起こしてやればいい、こんなところで無防備に眠るのが悪いのだから、頭を小突いてでも目を覚まさせ、さっさと追い返せばいい。

 ……だが、布越しに伝わる微かな温もりが、妙に頼りなげだった。

 その時――。

 空気が、ほんのわずかに揺らぐ。屋根裏にわざとらしいほどに露骨な気配。隠れるつもりなど最初からないのだろう。そこに潜む気配は、余裕を持ってこちらを窺っている。わざと気づかせるための存在感だった。

 土井はゆっくりと視線を天井へ向けた。

「タソガレドキ忍軍の組頭自らお迎えとは。部下に対して手厚いんですね」

「いやあ、申し訳ありません」

 飄々とした声が闇の中から降ってくる。次の瞬間、音もなく天井から人影が降り立った。床に落ちる影が一瞬揺らぎ、足音ひとつ立てずに着地する仕草は、まるで風が形を持ったかのようだった。

 雑渡昆奈門――タソガレドキ忍軍の組頭。その気配には、奇妙な軽さがあった。最初からこちらに見せつけるつもりで、あえて気配を漂わせていたのだろう。

 土井は肩を竦めながら、静かに言った。

「差し出がましいことを申し上げますが、ちゃんと休ませてあげてください。彼、寝ていませんよね?」

 雑渡は、喉の奥でくくっと笑った。

「徹夜でしたから。休むよう言っても聞かなくて」

 口布越しでは表情は読めないはずなのに、それでも笑っているのがわかった。まるで状況そのものを愉しんでいるようだった。

 雑渡昆奈門は尊奈門の寝顔を一瞥し、揶揄するような口調で続けた。

「いやはや、土井殿のところへ一直線とは。すぐ長期忍務に入るというのに……いや、決闘という名目で会いに来たかったんでしょうか」

 言葉は軽いが、その声音には微かな含みがあった。まるで土井の反応を試すように、じわりと間を置く。その静かな揺さぶりは、刀を鞘からわずかに抜いて見せるような、意図的な挑発の色を帯びている。

 一瞬、二人の視線が交錯する。雑渡の目には探るような光が宿り、土井は少し肩をすくめ、困ったように笑ってみせた。だが、その表情にはどこか演技めいた余裕がある。

「それはないでしょう。これだけ目の敵にしてるんですから。それに私は迷惑しています」

 土井の声は柔らかく、静かに夜の空気へと溶けていく。言葉に鋭さはなく、それでいて決して隙を見せるわけでもない。

 その穏やかな調子がかえって雑渡を楽しませたのか、彼は喉の奥で笑う。

「迷惑、ねぇ」

 雑渡がゆっくりと距離を詰める。音もなく、まるで影が動くように――。

「それにしては、ずいぶんと甘い顔をなさる」

 土井はふっと小さく息を吐いた。笑いも溜息もせず、ただ夜の冷気を胸に収めて静かに吐き出す。

「教師というのは、つい余計な世話を焼いてしまうものなんですよ」

 ひらりと手を振るような調子で言う。その声音は軽やかで、ひどく他人事のようでもあった。しかし、その裏側に何かを隠していることは、雑渡の目にも明らかだった。

「なるほど、それは恐れ入ります」

 雑渡はまるで感心したように頷くが、その目は笑っていない。夜の帳がすべてを包み込むなか、風がそっと枝を揺らす。

 一拍の沈黙の後、雑渡は軽く肩を竦めた。

「んじゃ、そろそろお暇しましょうかね」

 肩をすくめながら、雑渡はふいと視線を逸らし軽やかに言葉を放つ。尊奈門の肩に手をかけ、軽く揺さぶると彼はぼんやりとしたまま目を開けた。まるで夢のなかをさまよっているような、頼りない眼差しだった。

「……ん、んん?」

 ぼんやりとした瞳が、土井を捉えた。土井はまどろみの中で自分を見上げる尊奈門の瞳を静かに見つめた。いつもなら、戦意と意地が滲んだ鋭い眼差しを向けてくるはずの男が、今はまだ夢と現実の狭間にいるような、頼りない光を宿している。

「……土井?」

 かすれた声で名を呼ばれ、土井はほんのわずかに瞬いた。そして次の瞬間、彼は何かを思い出したかのように勢いよく顔を上げ、まっすぐ土井を見つめる。

「土井!」

 荒々しく名を呼ぶと、身を乗り出し、そのまま飛びかかるような勢いで構えを取る。だが、次の瞬間、雑渡の手が彼の肩をぐいと押さえた。

「はいはい。そこまで」

「うわ! ……え!? 組頭がどうしてここに!?」

 尊奈門は驚きに目を見開いた。

「全然帰ってこないから、わざわざ来たんでしょーが」

 その言い方は呆れたようでいて、どこか面白がってもいる。尊奈門は不満げに唇を尖らせたが、すぐにまた土井を睨みつけた。

「でも、私は……!」

 再び踏み込もうとした瞬間、雑渡が軽く肩を叩いた。それだけで、まるで糸が切れたように尊奈門の動きが止まる。

「土井殿にこれ以上迷惑をかけちゃダメ」

 雑渡の声には、静かな抑えが効いていた。無理やり押さえつけるのではなく、ただ、心の奥に届くような、穏やかだが確固とした声音。

 尊奈門は歯を食いしばりながらも、「……はい」としぶしぶ腕を下ろした。

 土井はそんな二人を眺めながら、ふっと小さく息をついた。

「尊奈門くん」

 呼びかけられた名に、彼は反射的に土井を振り仰ぐ。その目にはまだ、消えない闘志が燃えていた。夜風がそっと頬を撫でる。遠くで虫の音が響き、かすかな夜露の香りが立ち込める。

「待たせたのは申し訳なかったけど、怪我をしていたり疲れている状態では私と手合わせしても実力を発揮できないだろう。だから、万全な時においで」

 静かな口調だった。決して尊奈門の気持ちを否定するのではなく、ただ、真っ直ぐに向き合う。その言葉には、彼を気遣う温かさが込められていた。

「……手合わせではない。果たし合いだ!」

「いちいち突っかからない」

 雑渡に小突かれ、尊奈門は不満げに顔をしかめた。だが、土井の視線の中にあったのは呆れではなく、静かな観察だった。

 つい先ほどまで、あれほど闘志をむき出しにしていたというのに、雑渡の一言でたちまち従順になった。それは単なる服従ではない。尊奈門にとって雑渡は、ただの上司ではなく、自らが生きる指針そのものなのだろう。彼の言葉には疑いを挟む余地すらなく、迷いもない。

 土井はその様子を見つめながら、どこか苛立ちにも似た感情が滲むのを感じた。もし自分が尊奈門にとって同じくらいの影響を持っていたなら――。

 そんな考えが、ふと脳裏をかすめる。だが、それを表に出すことはない。彼はただ、静かに視線を落とした。

 尊奈門は掛けてあった羽織を手に取り、丁寧に畳んだ。その手つきには戦意を収めた静けさと、どこか未練のようなものが滲んでいた。

「……世話になったようだな。今日はこれで帰るが……」

 短く、それだけを言うと、彼は軽く頭を下げた。土井はその姿をじっと見つめながら、微かに目を細める。礼儀正しく、しかし心の奥では納得していない。それが手に取るようにわかった。

「次こそは、必ず倒す!」

 尊奈門は顔を上げると強く言い放った。彼の目には確かな決意が宿り、その声音は夜の空気を切り裂くように響く。負けを認めない、屈しない意志。その眼差しには、揺るぎない信念が宿っていた。

 土井はその言葉を受け、ふっと柔らかく微笑んだ。

「うん。またね」

 土井の目には凪いだ水面のような澄んだ光が宿っていた。揺るぎなく、迷いなく、けれどその奥底には、言葉にはならぬ願いが隠れている。

 生きて、また顔を見せに来て。

 夜の静けさに溶け込むように、そっとまなざしを向ける。そのまなざしに込められたものを尊奈門は感じ取っただろうか。

 尊奈門と雑渡の背中が闇に消えていくのを見届けると、土井はふうと息を吐いた。

「……おやすみ」

 その声には、温もりが混じっていた。夜風が頬を撫で、遠くで梟の鳴き声が響く。長屋は再び静寂に包まれ、火鉢の炎だけがゆらゆらと揺れていた。

 土井は振り返ると、尊奈門が座っていた場所をそっと見つめた。そこには彼の体温がまだ残っているような気がして、なぜかしばらくその場を離れることができなかった。





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