西の空が静かに朱に染まり、沈みゆく夕陽が教員長屋の軒先を柔らかく包み込んでいた。淡く赤みを帯びた光が板戸や柱に影を刻み、秋の気配をそっと忍ばせている。風もなく、空気は澄み切ってどこか物憂げな夕暮れの調べが辺りを支配していた。
障子越しの夕暮れの光が、板張りの床に淡い陰影を落とす。机の上には広げられた教案書と筆、そして硯。その脇には無造作に積み重なった試験の答案用紙が山をなしていた。ほのかに墨の香りが漂い、静寂の中にただ筆の走る音だけが響いている。
筆を持つ手が止まり、土井半助はひとつ深い息を吐いた。
(……これはまた)
一年は組の試験結果は、惨憺たるものだった。誤答の印が無情に並ぶ答案用紙を見つめながら、胃の奥がじくじくと痛む。簡単な問題すら落とし、凡ミスが目立つ生徒の多さに思わず眉間に皺が寄る。
試験を終えたは組の子たちは晴れやかな顔で帰っていったが、これを採点する側の身にもなってほしい。
(補習を考えないといけないな)
筆を置き、試験答案の束に手を添えた時だった。
「土井先生ぇ~いらっしゃいますか~?」
のんびりとした声が長屋の廊下から響いてきた。障子越しにぼんやりと人影が映る。声の主はすぐにわかった。
「入っておいで」
返事をした直後、さらりと障子が開く。顔を覗かせたのは案の定、事務員の小松田秀作だった。両手で大事そうに封書を抱えている。
それを目にした瞬間――
(来たか)
思わず、心の中で呟いた。端正に折り畳まれた封書を目にしても、もはや驚くことはない。表には整った筆致で、明らかに果たし状と分かる文字が踊っている。
「やあ、小松田くん。どうしたんだい?」
「先生宛のお手紙です」
にこやかな笑みを浮かべつつ、封書を両手で丁寧に差し出してくる。その瞳にはわずかな好奇心が滲んでいた。誰からの手紙なのか、内容は何なのか――そんな興味が、隠しきれずに表情に現れている。
「ありがとう」
短くそう告げながら封書を受け取る。指先に馴染む和紙のざらつき、ふわりと鼻をくすぐる墨の香り。封の折り目は端正で、書き手の律儀さがうかがえた。
封を解き、紙を広げる。
――今宵、裏々山にて待つ。時刻は亥の刻。忍具以外の卑怯な策を禁じ、忍びの作法に則り参じよ。技と胆力、研ぎ澄まされた意志のみをもって勝負を決するのみにて。――タソガレドキ忍軍 諸泉尊奈門
筆致は流れるように美しく、墨の濃淡にまで神経が行き届いている。だが、そこに宿るのは優雅さではなく、決意。戦いに挑む者の強い意志が刻まれた、一筆一筆だった。
土井は眉間に軽く皺を寄せ、わずかに目を細めた。手紙をそっと折り畳みながら深く息を吐く。
彼の仕草には、面倒を押しつけられた者特有の倦怠が滲んでいた。
表情は相変わらず困った風を装っていたが、胸の奥では別の感情が静かに膨らんでいる。
忍び同士の決闘のはずなのに、どこか武士の気質を感じさせるのはなぜだろう。
几帳面で、生真面目で、それでいて挑戦的な――まるで諸泉尊奈門という人物の性格がそのまま文字に現れているようだった。
土井はふっと小さく息を吐き、手紙を指先で軽く弾いた。
「懲りないねえ」
ぼやくように呟いた土井の声音は、呆れと諦めの間で揺れていた。しかし、その言葉とは裏腹に胸の奥底では微かな高揚を覚えている自分がいる。
これで何度目になるだろう。果たし状を受け取るたびに感じる、ほんの僅かな嬉しさ。
けれどそれを表に出すわけにはいかない。
そんな彼の内心を知る由もない小松田は、面白がるように眺めている。
「お忙しいなら、お断りされたらいかがですかあ?」
呑気な口調に、土井は苦笑を浮かべる。
「うーん。そうしたいのは山々だけど、断ったらさらに厄介なことになりそうだからね」
軽口を叩きながら再び筆を取る。封書を懐に収めた途端、肌にじんわりと馴染む感触があった。まるでそれが自分の鼓動を映しているかのように、わずかに指先が熱を帯びる。
「先生も大変ですねえ」
肩をすくめる小松田に、土井もつられるように笑みを返す。しかし、意識の片隅ではすでに別の景色が広がっていた。
薄闇の中、挑むような眼差しを向ける諸泉尊奈門の顔が浮かぶ。
筆を握る指に余計な力が入るのを感じながらも、何気ないふりを装い静かに息を整えた。
「それでは。お邪魔しました」
「うん。ご苦労さま」
土井の穏やかな声が室内に溶ける。小松田は軽く頭を下げ、静かに障子を閉めた。
僅かな風が入り込み、板張りの床をそっと撫でていく。
夕陽が障子の隙間から差し込み、赤みを帯びた光が部屋を包み込む。風が庭木を揺らし静かな夜の気配がすぐそこまで忍び寄っていた。
片付けるべき仕事は山ほどある。けれど、筆を走らせながらも土井の思考はふと別の方向へと逸れていった。
(懲りないのは、どちらだろうな)
書き綴る言葉の向こうに、己を見透かすような視線を感じた気がした。
諸泉尊奈門の挑戦は、もはや避けようのない日常の一部となりつつある。
決着をつけるべきなのか、それともこのまま流されていくべきなのか――答えを出すつもりはない。
それでも、筆を執る指先が微かに震えるのは、たぶん己の性分ゆえだろう。
ふと口元が緩みそうになる。だが、それを押し殺し、土井は表情を変えずに筆を進めた。
「困ったものだ」
そう呟きながらも、その声には僅かな期待が込められていた。