爆豪勝己が、苗字名前のことを意識し始めたのはいつからだろうか。雄英高校を卒業し、ジーニアス事務所でサイドキックとして働き始めて四年。爆豪はプロヒーローとしての実績を重ね、その名は広く知られるようになっていた。
そして五年目の春。新卒で入社した事務員の中に彼女はいた。苗字名前。それがその女性の名前だった。黒髪を顎のラインで整え、控えめな装いに化粧も薄く、特別目立つわけではないがどこか柔らかな雰囲気を漂わせている。
爆豪の彼女への印象は薄っぺらいもので、ただのモブ。その程度。ベストジーニストがスカウトしたと聞いたが、彼がなぜこの人材を事務所に入れたのだろうかと疑問に思っていた。
しかし、その疑問はすぐに解消された。彼女は仕事ができたのだ。
名前が入社してまだ間もない頃のことだった。爆豪は高層ビルの火災現場に出動していた。火は予想以上に広がり、ビル内には取り残された住民がまだ多く、現場は緊迫した空気に包まれていた。
息を呑むような熱気の中、爆豪は危険に晒された人々を次々と救出し、消火活動をサポートしながら、周囲のヒーローたちと協力して事態の収束に奔走した。
事務所に戻り、全身に重い疲労を感じていたものの、その疲れを口にすることなく、さりげなく肩をほぐしていた。前夜もまたほとんど徹夜で別の出動をしており、その報告書さえまだ手をつけられていない。少しでも進めておかなければ、とデスクに向かった時、別のエリアで突発的な事件が発生し緊急のチームアップ要請が舞い込んだ。今日の事務作業も後回しかと内心でつぶやきつつも、その場で気持ちを切り替えようとしたときだった。
顔を上げると、目の前に名前が立っていた。彼女は一冊のファイルを手にしており、それを爆豪の前にそっと差し出した。
「こちら、昨日の出動報告と関連する情報をまとめておきました。すぐにご確認いただけるよう、要点を整理しています」
「……は?」
一瞬、何を言われたのか理解できず、爆豪は呆然と彼女を見つめた。名前は落ち着いた瞳で微笑み、続けた。
「少しお疲れのようだったので。よかったらお使いください。データはクラウドの共有フォルダにも保存しています」
ポカンとした表情を浮かべつつ無言でファイルを受け取った。中には、出動経緯や救助の状況、火災による被害状況の詳細が整然と記録されていた。さらに、現場にいた他のヒーローとの連携内容まで丁寧にまとめられていた。
「……助かる」
爆豪が小さく礼を言うと「よかった」と微笑みを浮かべ、そのまま自分のデスクへ戻っていった。去っていく背中を爆豪は見つめたまま、無意識に手の中のファイルを少しだけ握りしめた。
それ以来、爆豪は名前の細やかな気配りとサポート力に自然と目が行くようになった。彼女は、周囲が円滑に動けるようさりげなくサポートし、他のスタッフからも信頼を得ていた。
ヒーローのスケジュール管理から警察や行政との調整まで、その業務は多岐にわたるが、彼女はそれらを非常に効率的にこなし、ベストジーニストの信頼も厚かった。ここ数年、大きなトラブルもなく事務所は安定している。
誰とでも物怖じせずにコミュニケーションを取り、いつの間にかすっかり職場に馴染んでいる。それを謙虚な表情で、さり気なく行っているのだからたいしたものだと爆豪は感じていた。
ただのモブから信用のおける仲間へ、そしていつしか同期の仲間たちと同じような目で名前を見るようになっていた。
しかし、それは決して恋や愛といった甘い感情ではなかった。どれほど打ち解けようと、彼女を見る眼差しにそうした気配が差すことはなく、名前もまた同じ距離感を保っていた。
そうしなければならない──そう無意識に感じていたのかもしれない。踏み越えてはならない一線が、自然とそこに引かれているようだった。
名が知れるにつれ、爆豪の周囲には様々な噂がついて回るようになった。特に女性関係の噂は、彼が誰かと会話を交わしただけであれこれと憶測を呼び、勝手に話が膨らんでいく。だが、爆豪にとってそれらはどれも取るに足らない戯言でしかなく、聞き流しては放置していた。
彼が求めているのは確かな信頼と共に戦場に立つ覚悟を持った仲間だ。その点で、彼は同僚たちとの関係を大切にしており、名前に対しても例外なく同じ態度で接していた。だからこそ、周囲がどう勘違いしようと自分にとっては関係のないことだった。
そう思っていた。
しかし、そんな関係に変化が訪れたのは、爆豪がサイドキックになって七年。名前がジーニスト事務所に勤めて三年が経った時のことだった。
緊急出動した深夜。激しい戦闘の末、敵を捕らえた爆豪はふと脇腹に鈍い痛みを感じた。見下ろすとヒーロースーツの隙間からわずかに血が滲んでいる。側にいたサイドキックが「病院に行かなくて大丈夫か?」と心配げに声をかけてくる。
「へーきス」と答えたが、砂埃にまみれた身体のまま帰宅する気にもならず、結局、事務所でシャワーを浴びて簡単な手当てを済ませることにした。いつもはチームプレイの場面では他人に頼ることもあるが、負傷など自分のことに関しては他人に任せるのを好まなかった。
事務所のワンフロアには灯りがついていた。ヒーローだけじゃなく事務員も三交替で二十四時間体制で動いている。今日の夜勤担当は誰だったか、そう考えつつ事務所に足を踏み入れる。が、そこには誰もおらず、中はもぬけの殻だった。ホワイトボードを確認すると夜勤担当者の欄に『現場』とだけ書かれている。どうやら全員出払っているらしい。
まあ、誰もいないのは気が楽か、とシャワー室へ向かった。
熱いシャワーを浴びて血と汗を洗い流すと、少し冷静さが戻ってきた。脇腹には違和感が残っていたが、そこまで大した傷ではない。誰もいないことをいいことに上半身裸のまま、濡れた髪をタオルで拭きながら事務所のフロアへと戻る。
ふと、足が止まった。視線の先には名前の姿があった。彼女と目が合い、一瞬、二人ともその場で固まるように見つめ合ってしまう。彼女は夜勤のシフトには入っていないし、確か今は海外出張中のはずだ。事務員たちが「週末に戻るみたい」と噂していたのを耳にした記憶がある。
だが、ここにいる彼女を目の前にして、爆豪は心中にわずかな動揺を覚えた。
「お疲れ様」
「……なんでテメーがここにいんだよ」
名前は驚いた様子もなく、肩をすくめる。
「予定が早まってね。さっき帰国したんだけど、時差ボケで全然眠くなくて。どうせだから仕事でもしようかなって思って」
照れくさそうに微笑むその姿に、爆豪の胸の奥がかすかに揺れた。戦闘の後に残るアドレナリンの影響だろうか、彼女へと自然と意識が向いてしまう。気がつけば、その不思議な感覚が心の奥でじわじわと広がり、爆豪の思考を占めていく。
ふと、名前の視線が脇腹に注がれる。
「怪我してるの? 病院は?」
「こんなん、ほっときゃ治るわ」
そう言ってタオルで傷口を雑に拭おうとするが、名前はそれを遮るようにそっと近づいてきた。
「見せて。手当てするから」
「いらねぇって言ってんだろ」
反射的に突っぱねるものの、彼女は少しも揺るがない。静かな視線には心配と気遣いが見え隠れし、爆豪をじっと見据えている。普段は余裕を感じさせる顔に、どこか真剣な色が浮かんでいた。
「あなたが嫌がるのは分かってるけど……やっぱりちゃんとケアしないと」
穏やかな声が耳に触れた瞬間、爆豪の心の奥に小さな波がさざめき始める。いつもなら素直に受け入れられないはずの状況なのに、今日は不思議と抵抗する気力が湧いてこない。言葉そのもの以上に彼女の優しさがじんわりと心に染み渡り、気づけば力が抜け、自然と身を預ける気持ちが芽生えていた。
「そんなカッコじゃ冷えちゃうし。さっさと終わらせよ」
返事のない爆豪を見て、名前はふっと頬をほころばせる。その奥にあるはずの感情の正体には気づけないまま、共に医務室へと向かう。
扉を開けると、名前は備え付けの戸棚を探り消毒薬とガーゼを取り出してベッドに座る爆豪に顔を向けた。
「はい。消毒して」
爆豪は素直に受け取り、それを脇腹に当てた。ピリッとした痛みが走り、薄っすらと血が付着する。
「傷テープ見当たらないな……仕方ない、包帯で巻くか」
名前は再び戸棚を探り、包帯を見つけるとそれを手に取って爆豪の方に向き直った。
「痛い? 大丈夫?」
「痛くねぇわ」
「そう。じゃあ包帯巻くね。ガーゼ押さえてて」
包帯を巻くために少し身を乗り出すと、その前髪が爆豪の目の前にさらりと垂れ落ちた。ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
「……今回は大したことなさそうだけど、無茶しないでね」
小さく囁くように声をかける。その手が包帯越しに傷口にそっと触れた。温かい感触になぜか息が詰まりそうになる。指先から伝わる体温が、胸の奥の柔らかな部分にそっと触れたような気がした。
包帯を巻き終わり、名前はそれを軽く指で押さえて確認する。
「よし、できた」
名前が顔を上げた瞬間、二人の視線が重なった。爆豪の鋭く澄んだ瞳が彼女を真っ直ぐに捉え、思わず息を呑むような一瞬が訪れた。その瞳には、普段の冷静さを越えた何かが微かに揺れているように感じられ、名前もまた視線を逸らせずにいた。
──触れたい
抑えがたい衝動が爆豪の胸の奥から湧き上がる。反応を探るようにそっと手を伸ばし、名前の頬に触れた。彼女の温もりが指先から伝わり、二人の間の空気が密やかに交わる。
慎重に表情を確認しながら、少しずつ顔を近づけていく。拒絶の色が浮かばないかと緊張しつつ、吐息が触れるほどの距離で動きを止めた。
静寂のなか、鼓動が高鳴り名前の視線は変わらず爆豪を見つめ返している。その潤んだ瞳の中に自分と同じ熱を感じ、次の一歩を踏み出すべきかと逡巡が生まれる。
やがて、名前は静かに瞳を閉じ、ゆるやかに顔を上向けた。その仕草には今まで見せたことのない女としての色が垣間みえ、爆豪の胸の奥底が激しく揺れ動く。
頬に添えていた手をそっと滑らせうなじに回すと、静かに唇を重ね合わせた。
柔らかく、熱を帯びたその感触は甘く痺れるような感覚を全身にもたらし、触れるだけの浅い口づけが続く。たったそれだけの行為に、心は高鳴り押さえようのない情熱が静かに膨らんでいく。
──なんだ、これは。
今まで、幾度も女性からの恋情を匂わされ告白を受けることはあったが、どこか無機質な日常の一部のようにしか感じられなかった。だが、目の前にいる名前には、無意識のうちに胸の底から溢れる熱が、明確な欲望へと形を変え始めていた。
頭では止まれと警鐘を鳴らしている。しかし、体は逆らうことなく彼女の唇を求め続ける。触れた瞬間、それが今まで感じたことのない特別な感情だと直感した。
──もっと深く、すべてを奪い独占したい
そんな執着にも似た感情が、心の奥で静かに揺れ動く。
もう、ただの同僚には戻れないことを悟りながら、爆豪は後頭部に回した手に少し力を込め、さらに深く唇を重ねた。