爆豪が切島と上鳴に胸の内を打ち明けてから数日後の夜。冬の冷たい風がビル街をすり抜け、街灯の下には一枚、また一枚と枯れ葉が舞い落ちていた。名前は一日の仕事を終えてオフィスビルを出ると、ふと夜空を見上げる。群青の空には無数の星が瞬き、凛と澄んだ冷気が頬を刺すように撫でていく。
静寂に包まれ始める街の中で、夜の空気は心地よさと共に、胸にわずかな物寂しさを漂わせていた。
あの日、「勝手にしろ」と冷たく告げられて以来、爆豪の態度がどこか遠く感じられる。冷ややかな視線や素っ気ない返事が、微かな針となって胸の奥に刺さり続けていた。怒りの理由もわからないまま、ただ彼の冷たい態度を受け止めるしかない。それが何ともやりきれなく、名前は表面上普段通りの態度を装うしかなかった。
けれども、心の底で「もしかしたら」という思いがくすぶり続け消し去ることができないでいる。
あの夜は、名前にとってもひときわ特別なものだった。穏やかな寝息と共に抱き寄せられた温もり、その胸に耳を当てれば静かに響く確かな鼓動。それは普段の傲然とした姿とは異なる、ふと垣間見えた無防備な横顔だった。
まるであの一瞬の間だけ、自分だけに許された存在であるかのように思えた。しかし、自らの中に芽生えた淡い期待を押し殺し、あの夜を無かったことにしたのは他でもない自分だ。爆豪がどんなつもりであの行為に及んだのかは分からないが、彼の心の奥にある何かに触れてしまった気がして、名前にはそれが怖かった。
「何か……間違えたかな?」
小さな呟きは、冷えた夜空に吸い込まれていった。もし、あの夜が単なる衝動に過ぎなかったとすれば、この想いも無意味なはずだ。それでも、温もりを「ただの錯覚」として切り捨てられずにいる自分がいる。
その時、前方から誰かが近づいてくる気配を感じて顔を上げた。街灯の下に浮かび上がるシルエットに息を呑む。
現れたのは爆豪だった。革ジャケットのポケットに両手を突っ込み、いつものように眉間に皺を寄せてこちらを眺めている。
視線がぶつかり、胸の奥が微かにざわつくのを感じた。
「爆豪くん?」
名前が名を呼ぶと、爆豪はゆっくりと彼女に歩み寄る。その眼差しには、普段の冷ややかさではなく、言葉にならない何かを伝えたそうな色が浮かんでいる。
沈黙が二人の間を包み、名前は張り詰めた空気に耐えかねて、気まずさを紛らわすように口を開いた。
「お、お疲れ様。どうしたの?」
「……名前」
不意に名を呼ばれ、どきりとする。低く響くその声は、いつになく真剣みを帯びていた。
「時間あっか」
静かに、しかし有無を言わさぬ口調で問いかける。名前は戸惑いながらも小さく頷いたが、その表情には不安と期待が入り混じっていた。
***
二人は夜の街を歩き、人気のない公園のベンチに腰を下ろした。冷たい夜風が二人の間をすり抜け、静かな緊張感が漂う。遠くの街灯がぼんやりと揺れ、その光が二人を淡く照らしている。
名前は隣に座る爆豪の横顔をそっと盗み見た。影に隠れて表情は見えないが、その沈黙はいつもより重たく感じられる。言葉を交わしたいのに、何かが喉に詰まったようで声にならない。
どれほど沈黙が続いただろう。不意に、爆豪がぽつりと呟いた。
「悪かった」
「……え?」
意外な言葉に、名前は思わず顔を上げた。彼の表情はいつもの不遜さを欠き、どこか思いつめたようだった。それが何に対する謝罪なのか、彼女には分からなかった。ただその横顔をじっと見つめるしかない。爆豪は視線を落としたまま、低い声で続けた。
「態度悪かったろ」
「あ……いや。私が怒らせたんだよね」
爆豪はベンチの背にもたれ、夜空を仰いだ。
「俺が勝手に苛立ってただけだ」
「でも、なにか私に対して思うことがあるから、でしょ」
慎重に言葉を選びながら問いかける名前。しかし爆豪は否定も肯定もせず、夜闇を見つめている。その沈黙に、名前は彼の葛藤を感じた。
「……あのこと、後悔してる?」
おそるおそる切り出した名前。「あのこと」とは、彼との一夜のことだった。もし彼がそれを後悔しているのだとしたら。
胸が締め付けられるような感覚が彼女を襲う。知りたいと思いながらも、答えを聞くのが怖かった。
だが、爆豪は彼女に視線を向け、はっきりと言った。
「後悔してるわけねえだろ」
その言葉には力強さがあり、迷いがなかった。彼の瞳には怒りや苛立ちではなく、真摯な想いと切なさが入り混じっている。
「誰でもよかったわけじゃねえ。お前だから、抱いた」
爆豪は慎重に言葉を紡いだ。その瞳を前に、名前は目を逸らすこともできずただ耳を傾けた。言葉が胸の奥に眠る感情を呼び覚まし、鼓動が高鳴る。
「それって……」
「だから」
言葉を切った後、爆豪は大きく息を吸い込んだ。
「俺は」
しかし言葉を紡ぐ寸前、苛立たしげに舌打ちし長くため息をついた。頬にはかすかな赤みが差し、いつになく余裕のない表情を浮かべている。
それに気づいた名前は彼が何を言おうとしていたのかを悟り、胸がさらに強く高鳴るのを感じた。
「俺は、お前が」
覚悟を決めたように、爆豪は再び口を開いた。その熱っぽい声と真剣な眼差しが、名前の心にしっかりと届いていく。
「名前が…………す」
「……ん?」
「だから」
「うん」
「……」
「……」
「……っ察しろや! わかってんだろ!」
半ばやけくそに叫ぶと、名前は堪えきれずに小さく吹き出した。
二人の間に張り詰めた緊張の糸が途切れる。爆豪はバツの悪そうな表情を浮かべながら、視線を逸らして頭を搔く。その耳まで赤く染まる姿に愛おしさがこみ上げた。
不器用で告白とも言えない告白だったが、彼女の胸を熱くするには十分だった。
「そこは、好きだじゃないの?」
「……ウルセェ」
不貞腐れたように言い放ち、視線を逸らす。その横顔には照れと気まずさが入り混じっているが、それでもなお、彼の想いは確かに伝わった。
「そんな素振り、今までなかったじゃない」
頬を緩ませながら名前が問えば、爆豪は一呼吸置いてから答えた。
「お前とは、同僚としての距離を保つべきだと思ってた。でも、そう考えた時点で俺はもうお前を特別に見てるって気づいた」
静かに語る彼の言葉が、名前の胸に波紋を広げていく。爆豪は照れくさそうに口元を覆い小さくため息をついた。
「俺がこんな風に思うのは、お前だけなんだよ」
その言葉に、名前の胸の中で固く閉ざされていた感情が、ゆっくりと氷解していく。
自分なんかが、と決めつけ傷つくのを恐れていた臆病な心。それを隠して距離を置こうとした自分が、彼の一言でこんなにも心を揺さぶられている。そんな自分の単純さに呆れながらも、その言葉をひとつひとつ噛みしめた。
爆豪は名前の前に身を屈め、視線を合わせるように彼女の名を呼ぶ。
「こっち見ろ」
その言葉に引かれるように名前が顔を上げると、爆豪の真剣な眼差しが彼女を捉える。熱を帯びたその瞳はあの夜と同じものだった。名前は視線を逸らすこともできず、ただ彼を見つめ返していた。
「俺は、無かったことにしたくねえ。お前は?」
爆豪の問いに、名前は胸が締め付けられる思いだった。
言葉を発せずにいる名前を、爆豪はただ静かに見守っていた。
「……私も、無かったことにしたくない。忘れられるわけがないよ。ずっと好きだったの」
震える声でそう告げると、爆豪は安堵したように表情を和らげた。
「あの夜はたまたま気が向いただけだって思ってた」
「んなわけあるか。俺が誰でも手出すと思ってたんかよ」
「そういう人じゃないって思ってるよ。でも爆豪くんの噂が事実なのか分かんなかったし、あの時はそういう気分だったのかなって」
「は〜〜お前ふざけんなよ……」
名前の言葉に、爆豪はため息をついて項垂れる。
「だって、私のこと興味ない感じだったのにいきなりキスするからそう思っても無理ないと思う。何も言わないからわからないよ」
拗ねたように唇を尖らせる彼女を見て爆豪はバツの悪そうな表情を浮かべた。自覚していた分、名前の言葉に反論できない。
自分の行動を思い返すと、あの瞬間、衝動的に体が動いたのは確かだった。ただ目の前の女を自分のものにしたいと強く思った。それは今まで感じたことのない強い欲望だった。
「でも、無かったことにしようって……ずるいことしてごめんなさい」
俯く名前に爆豪は小さく首を振りながら息を吐いた。
そっと名前の腕を引き寄せ抱きしめる。胸に閉じ込めれば、名前の口から小さな吐息が漏れた。ゆっくりと背中に回された彼女の腕が再び二人の距離を縮める。
「おあいこってことにしろ」
爆豪が耳元で囁くと、名前は小さく笑って頷いた。
「だいたいな、お前も大概わかりにくいんだよ」
「え?」
「俺のことは眼中にねえと思ってたわ」
「それは、バレちゃいけないと思って隠し続けた結果というか……ってたった今おあいこって言ったじゃない」
フッと息を漏らすと抱きしめたまま、名前の額に自分のそれをそっと重ねた。至近距離で視線を交わし、鼻先が触れ合う距離まで近づく。
「もう隠さねえ」
「うん。私も」
名前は爆豪の首に腕を回すとそっと唇を重ねた。それはあの夜と同じ、触れるだけの優しいキスだった。唇が離れる瞬間、追いかけるようにして今度は爆豪からキスが降ってくる。
想いが通じ合った後のキスは、幸福と高揚感をもたらせた。触れ合った部分から互いの体温が混ざり合いやがてひとつの熱になる。
それは甘く切ない疼きとなって体を熱くさせた。