あの日の出来事を互いに胸の奥深くへと封じ込めたまま、いくつかの夜が過ぎた。爆豪はヒーローとして多忙な日々に追われる一方で、名前との関係がただの同僚という平板なものに戻りつつあるのを感じていた。
事務所に戻れるわずかな時間、ふと視界の端に名前が映るとあの夜の記憶が蘇り、無意識に視線を逸らしてしまう自分に気づく。
名前の笑顔の裏に隠されたものが見えないことで胸中に募る苛立ちが消えない。あの出来事がただの過ちだったのか、それとも何かしらの意味があったのか──真相を知りたくとも、二人の間に横たわる無言の距離がそれを許さないかのように固く隔てていた。
「……クソが」
低く吐き捨てた言葉は、虚空に溶け込んで誰にも届かない。絡みつく切なさと収まらない苛立ちをどうにも整理できず、いつしか自分へのもどかしさが増していく。
そんな折、業務用端末が低い音で通知を告げた。画面には名前からの簡潔なメッセージが表示されている。
〈お疲れ様です。来週の案件の資料を送ります。ご確認お願いします。〉
爆豪はその短い文面を読み、眉間にわずかに皺を寄せた。以前は仕事の話だけでなく軽い雑談も交わしていたが、あの日以来、交流は淡々とした業務連絡だけに変わってしまった。彼女が変わらず冷静に仕事をこなしている様子を見ると、まるで自分だけがあの日の残り香に囚われているような錯覚に陥り、胸に苦々しい感情が渦巻く。
それでも、ふとした瞬間に彼女の微笑や、あの夜のかすかな温もりが不意に胸をかすめる。その残像を振り払えず、どうしようもない苛立ちばかりが募っていく。
***
冷ややかな風が木々の梢を揺らし、葉擦れの音が月夜に溶けていた。そんな晩、爆豪は旧友の切島と上鳴と共に居酒屋の奥の席で杯を交わしていた。
揺らめく灯火に包まれた店内には、年月の温もりが漂い、彼にとって数少ない憩いの場となっていた。しかし、今日は表情に険があり口数も少ない。杯を傾け、視線を落としがちにしている爆豪の様子に、切島と上鳴は気づいていた。
二人といることで多少気は紛れるが、胸の奥にくすぶるような苛立ちやもどかしさは消えない。しぶとく残るその感情が、静かに心を支配し続けていた。
「アレぇ? 爆豪、なんか機嫌悪い?」
上鳴が茶化すように声をかけると、切島も興味を引かれたように口元に笑みを浮かべ、「だよな。何かあんのか?」と声を添える。
「別に……大したことじゃねえよ」
「大したことねえ、って顔じゃねーだろ」
切島が探るようにさらに言葉を重ね、上鳴も「なになに、言ってみろよ」と興味津々で顔を近づける。
普段なら「なんでもねえ」と一言で片付けるところだが、この夜ばかりは言葉を飲み込んでいた。彼らの勘の良さは爆豪自身、嫌というほどよく理解している。下手な嘘をついても看破されることは目に見えているし、隠して面倒なことになるのも煩わしい。それならばいっそ正直に話したほうがマシだと判断する。
しかし、胸中のわだかまりをどう説明したら良いか分からず、爆豪は口ごもりながらも言葉を紡ぎ始めた。
「……なんつーか、その……気に食わねえ女がいて」
「お、おんな!? 爆豪が女の話を!?」
上鳴は目を丸くして、大袈裟なほど大きな声を上げた。その反応に爆豪の眉間に皺が寄る。
「ウッセーな悪ぃかよ!」
「いや全然! むしろ逆! 詳しく聞かせろよ!」
上鳴は嬉々として目を輝かせながら身を乗り出す。その反応に一層眉間の皺が深くなり「やっぱ話さねえ」と吐き捨てるが、切島が「まあまあ」となだめるように爆豪の肩を叩いた。
「何か悩んでんだろ? 話してみろよ」
その言葉はありがたいが、自分の心の奥深くにある感情を説明するのは難しい。しかし、一人で抱え続けるのにも限界がある。爆豪は小さく舌打ちをこぼし、話を続けることにした。
名前と一夜を共にした翌朝、彼女が何もなかったように平然と接してきたこと。自分を避けているわけじゃない、むしろいつも通りの笑顔を見せてくることがかえってこっちだけが引きずっているようで苛立たしいこと。笑顔の奥に、ひょっとして自分への想いがあるのかと期待してしまう瞬間もあるが、確信が持てないこと。その曖昧さに追い詰められて、つい素っ気ない態度をとってしまうこと。
二人は黙って爆豪の話に耳を傾けていた。その沈黙がどうにも気まずく感じられて「なんか言えや」とぼやくと、「んー……それってさ」と上鳴が口を開いた。
「その子、お前の気持ち知らないんじゃね?」
「いやわかんだろ」
「いやいや。わかんないって」
「俺はどーでもいいやつに手出さねえ」
「それはそうかもしれんけど。でもさ」と上鳴は言葉を選びながら続ける。
「爆豪っていつも熱愛記事とかスルーしてんじゃん?」
「はあ? それがなんだよ」
「だから、そういうの否定しねーから周りに誤解されてんじゃねえのか?」と切島が補足する。
二人の言わんとしていることを察し、思わず黙り込んだ。事務所でプライベートな話をあまりしない。と言うより業務時間外は緑谷のことで奔走していたから話せることがなかったのだ。事実無根な記事がネットニュースに上がるたび、まわりから好奇な視線を向けられるのがうっとおしくて「うるせえ!」と一喝して黙らせていた。それが名前の誤解を生んでいたのだろうか。
──あいつなら俺の性格くらい知ってんだろ? いや知らねえのか? もし、俺をそう見ているとしたら。だからあの日のことを無かったことにしようとしているのか?
考え込む爆豪の肩を、切島がポンと叩いた。
「ちゃんと話し合ったほうがいいぜ」
返す言葉を探すが、胸の奥で絡まり口からは何も出てこなかった。苛立ちと不安が胸中で渦巻き、再びグラスに視線を落とす。冷えた液体が喉を滑り落ちるたびに、絡まった感情が少しずつほどけていくように感じるが、残るのは虚ろな寂寞と言いようのない切なさだった。
沈黙する爆豪を見て、二人は視線を交わしながら微かに笑みを浮かべる。切島が柔らかな口調で静かに言葉を紡いだ。
「言葉にするのは簡単じゃねえって分かってるけどよ。今のままじゃ、お前の本当の気持ちも伝わらないままだろ」
「そうそう。まあ、爆豪が素直になる姿とかちょっと面白いけどな」
「チッ!」
切島の言うように言葉にするのは簡単ではない。だが、このもどかしさを抱えたままでいるのはあまりにも苦しい。
「頑張ってみろよ」
「振られたら俺たちが励ましてやっから。あ、瀬呂も呼んで!」
「ふざけんな振られねーわシネ!」
爆豪は乱暴な口調で言い捨てると、ビールを一気に飲み干した。からかい半分の激励が照れくさく、それを誤魔化すように残っていた料理を口に放り込む。友人達のエールに背中を押され、爆豪の心は少しだけ軽くなったような気がした。