微かなアラーム音が部屋の隅で低く響き、朝の日差しがカーテンの隙間から漏れて床に淡く光を落とす。柔らかな刺激に促され、意識が徐々に浮上していく。爆豪は重い瞼をゆっくりと開き、ぼんやりとした視界に、見慣れた天井が静かに映り込む。
昨夜の出来事が次第に蘇ってくる。事務所で名前とキスを交わし、そのまま自分の家に彼女を連れて帰った。そして体を重ね、夜が明ける直前にやっと眠りに落ちた。彼女と寄り添って寝る心地よさに包まれ、自然と安らぎを感じていた。そんな感覚に包まれて眠りに落ちるなんて、爆豪にとっては珍しいことだった。
手を伸ばし、名前が寝ていた場所に触れると、そこには冷えたシーツが広がっているだけだった。
「は……?」
声を漏らし、慌てて体を起こす。周囲の気配を探るが誰もいない。静まり返った部屋が、彼女の存在を感じさせるものを一切残していないことに気づき、焦りがじわじわと胸に広がっていく。
名前と一線を超えた。爆豪の脳裏に昨夜の彼女の姿が蘇る。自分の愛撫に反応して甘く蕩ける表情や甘やかに名を呼ぶ声を思い出し頭の奥がじんわりと熱を帯びる。だが同時に、その反応とは裏腹にどこか切羽詰まったような眼差しが脳裏にこびりついて離れない。彼女と過ごした一夜が、背後に見えぬ境界線を引かれたように感じさせる。
スマホをサイドボードから手繰り寄せ、通知画面を確認するが特にメッセージはない。そもそも名前の連絡先を知らなかったことに今更ながら思い至る。
目を覚ますと隣に名前がいるんだと、そんな淡い期待は見事に裏切られた。爆豪は一人きりのベッドの中で、小さく舌打ちをする。
──逃げた?
そんな不安が胸の中で燻り苛立ちが募る。キスした時もうち来るかと訊ねた時もベッドになだれ込んだ時も、彼女からは拒絶も嫌悪もなかった。だが好意を匂わせるような言葉も態度もなかったように思う。夢中になっていたから、彼女の反応の機微に気づけなかっただけかもしれないが。少なくとも嫌われてはいなかったはずだ。
「……名前」
思わず彼女の名を呟く。その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚がして、その息苦しさにまた舌打ちをする。
「あ゙ー! クソッ!!」
苛立ちに任せて髪を乱暴に掻きむしり、その勢いのまま寝室を出てキッチンへ向かう。冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出し、喉元へ一息に流し込むと、微かに熱を帯びていた胸の内がわずかに冷やされる。しかし、胸奥に巣食うざわめきは消えるどころか、さらに深く根を下ろしていくようだった。
年齢を重ね、幾ばくかの経験も積んだはずの二十代半ばの自分が、まるで思春期のガキのように感情を持て余している。そんな自分自身がひどく忌々しく、そしてもどかしい。
とにかく、話をしなければならない。再びスマホを手に取り、事務所のイントラネットにアクセスする。名前のスケジュールに『公休』の文字を見つけた瞬間、舌打ちが漏れた。つまり、彼女と会えるのは早くても明後日。
スマホの画面を消してソファへ乱暴に放り投げると、自らもドサリとそこに座り込んで天井を仰ぎ見る。
昨夜の名残がまだ消えきらぬ唇にそっと手を触れると、名前のしなやかな手つきや、触れ合ったときの微かな温もりが脳裏を過る。
わずかな触れ合いが心を掻き乱すような感情と、これまで抱いたことのない安堵。それらが自分の内に深く沈み込んでいるのを感じ、無意識に唇を噛み締めた。
ただの同僚だったはずの彼女がいつしか心の隙間に忍び込み、そこに居座っている。その事実に気づいた瞬間、焦燥と苛立ちが一層強く混ざり合い、得体の知れない焦げつくような感覚が胸を絞り上げる。
「……クソ」
名前の残り香が微かに漂うその空間で、爆豪はひとり呟いた。
***
「おはよう」
柔らかな声がオフィスの喧騒をくぐり抜け、爆豪の耳に届いた。顔を上げると、そこには変わらぬ笑顔を浮かべた名前が立っていた。その表情は穏やかで、まるで先日の出来事が影さえ残さず、何事もなかったかのように見える。
しかし、その目元に微かに感じる硬さがどこかぎこちないものを感じさせた。気づかなければ見過ごしてしまうような、ごく小さな違和感だったが、爆豪の胸の中に不安を呼び起こした。
「……あ?」
乱暴に反応してしまった自分の言葉の粗さに気づきながらも、気持ちは収まらなかった。彼女の振る舞いが、あの出来事を蓋をして流し去ろうとしているようで胸の奥に苛立ちが募る。だが、その苛立ちの裏には、自分が彼女の心の内に踏み込めていないもどかしさが渦巻いていた。
「おい」
思わず彼女を呼び、手を掴む。名前は驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を取り繕うように視線を伏せた。しかしその瞬間、彼女の瞳にかすかに浮かんだ動揺を爆豪は見逃さなかった。
「ちょっと来い」
「え、ちょ……」
有無を言わせぬ口調で告げ、そのまま手を引いてオフィスを出る。名前は少し戸惑った様子を見せたが、抵抗することなく大人しくついてきた。
休憩スペースに連れ込み、ガラスに囲まれた空間で二人きりになる。爆豪は空いた椅子に彼女を座らせ、自身はその目の前に立ちはだかった。
爆豪の鋭い視線に、名前は小さく息を飲む。その奥にある感情を読み取ろうと、彼女の瞳をじっと見つめるが、そこには困惑の色が滲んでいるだけだった。
「テメエ。どういうつもりだ」
「え?」
「なんで何も言わずに帰った?」
押し殺した声で問い詰めるが、苛立ちは抑えきれない。名前は再び戸惑いの表情を浮かべ、微笑みを返すが力のない笑顔だった。
「……ごめんなさい。どんな顔して会えばいいかわからなくて」
彼女の声にはかすかな脆さが漂う。微笑む表情とは裏腹に、その瞳はどこか不安げで頼りなげに揺れている。
「まさか、実は嫌だった、とかいうんじゃねえよな?」
「それは……違う、けど」
「じゃあ、なんで何もなかったような顔してんだよ」
爆豪の視線がまっすぐに彼女を捉え、逃げ場を失ったように感じた彼女の胸に、問いが鋭く響く。
「職場で気まずくなるのは嫌だから……」
「は? 答えになってねえ」
名前は顔を伏せたまま、静かに息をつく。その仕草はまるで、自分の中で何かを整理しようとしているかのようだった。
「だから、今まで通り同僚として接したかったの」
「……それは、無かったことにしてえってことか」
爆豪の声がさらに低さを増す。その声に潜む怒りに、名前は思わず顔を上げたが、すぐにまた目を伏せた。
「爆豪くんも、そう思ってるんじゃないかと……違った?」
静かな声にはわずかな揺らぎがあり、爆豪にはその真意が読み取れない。彼女の言葉が胸に突き刺さり、怒りとも焦りともつかない感情が全身を駆け巡る。
──こいつ、まじで俺を舐めてんな。
冷めたような態度が余計に苛立ちを煽る。無意識に握りしめた拳に力がこもり、胸の奥に眠る感情がじわじわと燃え始めていた。
苛立ちを隠しきれず、爆豪は小さく舌打ちをしてそのまま踵を返す。
「勝手にしろ」
吐き捨てるように言い放ち、振り返ることなくオフィスを出て行く。その背中が強く遠ざかっていくのを、名前はただ黙って見つめていた。
残された静寂の中、静かに息をつく。だが、その微かなため息がどれほどの重みを持っているのか、爆豪は気づかなかった。