ストーム・ボーダーの廊下は静かだった。
白く均一な光が天井のパネルからこぼれ、壁や床の影を等しくなぞっている。色のない無機質な空間は、どこを彷徨っているのかを見る者の感覚からやすやすと奪い去る。
その曖昧な時の流れの中を、わたしは一人歩いている。
靴音は吸音処理された床にかすかに響き、すぐに沈黙の中へと呑み込まれる。歩みは速くもなく、遅くもなく、まるで何かに導かれるようだった。
艦内の空気は温度も気圧も湿度も一定に保たれている。まるで調整された温室の中にいるかのように、すべてが過不足なく整えられていた。だが、その快適さはどこか現実離れしていて、心の奥に棘のような違和感を残す。
足が止まり、視線が無意識に一点を見つめていた。
――彼がいた部屋。
その扉の前に、立っていた。
目的があったわけではない。
ただ、気がつけばここに来ていた。記憶の中の誰かが、そっと手を引いて導いたのかもしれない。
無意識のうちに歩いた道は、どこかで何かを探していた。
すでに彼はここにはいない。
けれど、それでもなお、この空間にだけは彼の残り香のような気配があった。
触れられない温度。耳を澄ませても聞こえない呼吸。
それでも確かにそこにあった、かつての日々の名残。
特異点へ向かう日の朝の記憶が、ふいに蘇る。
廊下の向こうから足音が重なり、顔を上げると銀髪の青年が歩いてきた。白いコートを揺らしながら、ゆっくりと、まっすぐに。
その姿が目に入った瞬間、なぜだか心がざわついた。
「おはようカドック!」
自然に声が出た。笑みも添えた。それはいつも通りの、何でもない朝の挨拶のつもりだった。
カドックは目をわずかに見開き、それからすぐに微笑んで静かに頷いた。
「ああ。……よく眠れたか?」
短いやりとり。だけど、そのときの彼の瞳には、何か深い湖の底のような静けさがあった。
その奥に隠された思いを、わたしはそのとき読み取れずにいた。
ただの朝の始まりのはずだった。なのにその光景はなぜか心に焼き付いて離れない。
二人並んで歩いた廊下。沈黙が続いても不思議と居心地は悪くなかった。
陽光が窓から差し込み、彼の銀髪をきらめかせた。
その光景が理由もなく胸を温かくした。会話は少なかったけれど、時おり彼の視線がわたしの横顔を捉えるのを感じ、そのたびに小さな安堵が胸に広がった。
──最後に交わした言葉は、ごく短いものだった。
その一言は、何もかもを託すようでいて、それ以上は言わないという静かな意志を感じさせた。
止めたかった。名前を呼んだ。
足が、動かなかった。
彼の意志はもうとっくにその先にあったから。
見送るしかないと知りながら、それでも心は縋ろうとしてしまう。
それがこんなにも苦しいことだなんて。
あのときのカドックは穏やかな顔をしていた。
肩の力を抜き、まるで眠る前のように穏やかで静かだった。
強くあろうとする者の顔ではなく、戦うことに疲れた者でもない。
それは、すべてを越えた先で自分という存在を静かに受け入れた人の顔だった。
語られることのなかった夜。明かされることのなかった痛み。
そのすべてを抱えながらも、誰にも気づかれぬように、それを静かに抱えて歩いてきた人だった。
彼の中にあった苦悩のすべてを、わたしは知らない。
夢にうなされた夜。眠りに落ちることすら恐れた時間。自分を許せず、選び続けた沈黙。
――わたしには、知ることのできなかった夜が、彼の中に確かにあったのだ。
わたし自身もまた、幾多の異聞帯を越える中で、無数の“もしも”を振り切ってきた。
そのすべてに、後悔がなかったとは言えない。
それでも進むしかなかった。
汎人類史を取り戻すために。傷ついても、誰かを傷つけることになっても。
罪はすでに確定している。わたしはそれを認めているし、罰も受けるつもりでいる。
知られたくない弱さを抱え、見せたくない痛みを押し込めて、それでも守るためにただ前へと進んできた。
そして、そんなわたしの歩みに何も言わず歩調を重ねてくれたのがカドックだった。
肩を並べて進んだ静かな時間。
食堂に着いたとき、彼が黙って隣の席を空けて待っていてくれたこと。
死を悼む帰り道、わたしの沈黙に寄り添ってくれたことも。
沈黙の中に、カドックなりの優しさが確かにあった。
それに気づいたときにはもう遅すぎた。
惹かれていたのだ。
ほんの少しでも、もっと早くその気持ちに気づいていたら。
もっと話せばよかった。
もっと彼のことを知りたかった。
彼がどんなふうにカルデアを見ていたのか。どんな思いで異聞帯を越えてきたのか。夜をどれほど怖れていたのか。朝がどれほど遠かったのか。
知りたかった。
語られなかった言葉の奥に、どんな思いがあったのか。
「……なんで気づかなかったんだろう」
小さな声が、白い壁に吸い込まれていく。
応える者はいない。艦内の空気はただ変わらずに巡り、静寂はすべてを呑み込んでいく。
無理に笑っていた日もあった。泣きたいほど苦しい日もあった。
カドックはわたしが過ごしてきた夜をあの日まで知らなかったかもしれない。
けれど、それでも、わたしたちは確かにそばにいた。
それは幻ではない。
ただの偶然でもない。
歩幅が自然に重なっていた日々。互いが互いを、ほんの少しだけ大切に思っていた証だった。
言葉にしなくても伝わるものがある。
でも、言葉にしなければ届かないものもある。
そっと彼の部屋のドアに手を触れた。
冷たい金属の感触が指先に伝わる。そこはもう誰もいない。だが、扉の向こうに確かに生きていた人の面影だけは、まだ消えずに残っていた。
話したかった。
もっと、たくさんの言葉を交わしたかった。
それがどれほどの意味を持っていたのか、今ならわかるから。
彼が託してくれた手記を、わたしはこれからも携えていく。
頁をめくるたびに蘇るのは、あの静かな声、その眼差し、培った知識と祈りのひとしずく。
これは、単なる記録ではない。
彼が生きた証であり、わたしたちへ託された確かな未来への手触りだ。
必ずやり遂げる。異星の神を倒し、白紙化されたこの地球にもう一度汎人類史の歩みを刻み直す。
そして――いつかまた、彼らと、カドックと巡り会いたい。
わたしたちと旅した記憶を、もしすべて失ってしまっても――
それでも、きっとまた笑い合える。
そう信じている。
手のひらに残る冷たさを握りしめて、ゆっくりとその場を離れた。
眠るように静まり返った艦内には、遥か彼方、まだ見ぬ空の向こうで微かに息づく雷の気配が漂っていた。
花も芽吹かぬこの世界にあってなお、春というものの姿を心のどこかに思い描くように。
その静けさはひそやかに、けれど確かに身をふるわせていた。