北米の大規模特異点から命からがら帰還し、魔術礼装の分析のため待機を命じられていたカドックは、自室として使用している幽閉室で休息をとっていた。
ところが、そこに唐突に現れた人物により中断された。
眉根を寄せるカドックの視線など意にも介さず、その人物は「やっほー」と軽く挨拶してくる。
藤丸立香。汎人類史における最後のマスターであり、北米の大規模特異点でも行動を共にしてきた相手だ。初めてのレイシフトによる緊張と疲労で倦怠感の溜まる身体に鞭打ち、カドックはその相手を努めて無愛想に見返した。
「……何か用か?」
そう訊ねたが、藤丸の姿を見ておおよそ察した。彼女の両手にはトレーが握られており、その上には湯気を立てるカップとパン、フルーツが載っている。
「差し入れ持ってきた!」
「……は?」
「戻ってから何も食べてないでしょ?」
「要らない」
「お邪魔しまーす」
「おい!」
断ってもお構いなしにずんずんと部屋に踏み込んできた。そしてベッド脇の小さな机にトレーを置く。その動きには一切ためらいがなく、カドックはますます顔をしかめた。
「平然と入って来るなっ」
「え? なんで?」
「なんでって……」
あまりにも堂々としていて逆に呆れる。異性の部屋をまるで気にしていない。それどころかカドックの反応が理解できないのか首を傾げている始末だった。とはいえこういったやり取りは初めてではないので、すぐに言葉を重ねることは諦めた。藤丸はそんなカドックの様子を気に留めることなく備え付けの椅子に腰掛ける。カドックもまた小さく息を吐いて、ドアを開けたまま固定すると部屋の奥へと向かった。部屋の中、ベッドの横には簡素なテーブルと一脚の椅子がある。藤丸が椅子に座ったため、カドックはベッドの端に腰掛けた。
「軽く食べられるものがいいかなと思って」
そう言いながら、パンやフルーツが乗せられたトレーからマグカップを手に取るとカドックに差し出す。湯気とともにコンソメの良い匂いが漂ってくると食欲が刺激された。カドックは一瞬だけ躊躇いを見せたものの、そろりと手を伸ばすと礼を言ってそれを受け取った。マグカップを持つカドックを見て、ようやく藤丸は安心したように笑う。
(調子が狂う……)
そう毒づきながらも、それが不快じゃなくなりつつあってカドックは戸惑うばかりだ。それはあの特異点での日々の影響だろうか。しかしそんな内心の変化を悟られるのは面白くなく、カドックは渡されたマグに口をつけた。舌の上で熱と共に溶けていくコンソメが疲れ切った体に染み渡る。その感覚にほっとした途端、胃の辺りが急にきゅっと縮むような感覚。
思っていたより空腹だったのだと、そこで気が付いた。
「……美味い」
「だよね! ブーティカが作ってくれたんだ」
嬉しそうな声を上げて藤丸は微笑む。それはただ屈託のない笑顔だったが、カドックの意識を搦め捕るのに充分な効力があった。まるで普通の学生みたいに振舞うくせに、前線で何の迷いも躊躇いもなくサーヴァント達の指揮を取って立ち回る。基礎の魔術さえ扱えない素人だと侮ったのは最初だけで、実際戦闘に突入すればマスターとしての立ち振る舞いに経験と度胸があり、その認識も改めなければならなかった。
いま目の前にいる彼女は人類最後のマスターとしての重責はどこにも感じさせない。カドックを気遣ってわざわざ差し入れを届けに来るようなお人好しだ。善性を持ち合わせてる彼女の在り方は多くのサーヴァント達が興味を惹かれる要因にもなっている。カドックだってそれは否定できない。しかし同時に苛立たしくもある。
自分の卑屈さとは対照的な眩しさ。目を背ける方が簡単なのにどうしても目が離せない。彼女という存在を意識するたびに、不可解な感情を覚えるようになっていた。それはひどく苦々しく、ともすれば抗い難い。
「ところで、どうしてカップがもう一つあるんだ?」
カドックは視線をトレーに落として呟いた。トレーの上にはまだ一つ別のカップが載っている。湯気を上げるそれはカドックと同じスープだ。彼女がこの部屋を訪ねた時点でカップは二つあった。
白々しくそのことを指摘すると藤丸はあっけらかんと言い放つ。
「もちろんわたしの分だよ」
当然のように言うと藤丸はカップを手に取った。まだ十分に温かいそれをふうふうと冷ましている。カドックはその様子を無表情に見返していた。
「おまえもここで食べるのか」
「うん」
「……」
「一緒に食べたほうがおいしいでしょ。カドックはあんまり食堂に顔出さないし」
カルデアは捕虜であるカドックに対し、一定の自由を与える方針をとっている。シミュレーター室や食堂といった常時開放されている区画の出入りは制限されていない。
だが、カドックは人混みを避けて食堂を利用せず、自室で食事を取ることが大半だった。スタッフ全員が藤丸と同じように好意的とは必ずしも言えない。それを承知しているためだ。
しかし藤丸はそんなことなど知らないように、まるでそれが当たり前のように振る舞っている。それは彼女が善性を持ち合わせている故なのか、それとも生来の気質で人を惹きつける性質なのかはわからない。どちらにせよ彼女はカドックの立場が理解できているのだろうかと思わされる。
藤丸は嬉しそうな顔で「おいし〜」とスープを幸せそうに啜っている。彼女が持ち込む温かさを拒むことができず、カドックもまたスープを口にした。空腹の体は飲み込む度に内臓が喜んでいるかのように徐々に温まっていく。
「……物好きだな」
なるべく感情を出さないように口を開くと、藤丸は不思議そうに首を傾げた。
「僕といて得になることなんて無いだろ」
「得とかそんなんじゃないよ。カドックと一緒にごはん食べたいなと思っただけ」
「だからそういうのが物好きって言うんだ」
冷静に切り返すが、藤丸のペースから未だに抜け出せないでいる。藤丸が何を考えているのか読み解くことができなくてカドックは内心戸惑っていた。自分の所業を考えれば普通はもっと警戒されるし敬遠されても仕方がないはずなのに、藤丸はいつだって何のてらいもなく自然体で接してくる。
(やりづらい……)
何の気負いもない笑みには毒気も何も抜かれてしまう。彼女の目がまたしても眩しいものに見えてしまい、カドックは耐えきれずに俯くと舌打ちを零した。
どうやら自分は思っていた以上に藤丸とのやりとりに影響を受けているようだ。それを思い知って苦い顔をするが、こんな顔を見られたくなくてもう一度スープに口をつけることで表情を隠した。
***
「──ねえ、カドック」
藤丸が呼ぶ。何も言わずに視線だけをそちらに投げると藤丸はパンを手に持ったまま、もの言いたげにカドックを見ている。
何か言いたいことがあるのだと察しながらもカドックは素知らぬフリでスープを口に運んだ。藤丸は少し考え込んでいる様子だったが、ややあってからまた口を開いた。
「あの時、助けてくれてありがとうね」
耳に届いたのは、何の含みもない感謝の言葉。脈絡のない話題に一瞬虚を突かれたが、すぐにそれが先の特異点での出来事を指しているのだと気がついた。
あの時というのはおそらく、敵のアサシンに襲われそうになった藤丸をカドックが庇った時のことだろう。
「あれは、体が勝手に……」
咄嗟のことだったので深く考えて行動したわけじゃない。なぜ、と問われても答えられようもない。藤丸の体にナイフが刺さる光景を頭に思い描いた途端、その場から弾き出されていた。カドックは自分でも理解しないまま身体が動き出していたのだ。
ただ、あそこが死に場所になるのならそうかもな、と覚悟したのは憶えている。だがそれは、彼女──彼らは許さなかった。しょうがない、で諦めようとしたカドックを救ってくれたのは紛れもなく彼らで。こうしてカドックは生き延びている。あの時の選択が正しかったかなんてわからない。だが、自分の行動を後悔もしていない。寂しいとも思うけれど、彼らの思いを受け止めて足掻いて前に進もうと腹はくくっている。
「僕の選択の結果だ。だから、礼なんて必要ない」
「それでもお礼言わせてよ」
カドックが黙ると、困ったような微笑が返される。
「カドックがいなかったら危なかったと思う」
ぎゅっとマグカップを握る。その表情はどこか固い。カドックは彼女の中に視えた〝何か〟を感じ取る。微かに張り詰めた空気の中、直感のようなものがカドックに告げていた。
「何が怖いんだ」
思わず口をついて出た。藤丸がほんの一瞬だが息を止めたのが伝わってきて、しまったと唇を噛む。琥珀色の大きな目いっぱいにカドックの姿を映し出し、それを縁取る睫がゆっくりと上下する。
こんなこと聞くつもりじゃなかったのに。口をついて出た言葉は取り消せない。
「……すまん、なんでもない」
無遠慮に彼女の内側へ踏み込むなんてどうかしてる。そう思うものの、奇妙な焦りがカドックの喉をひりつかせた。
(聞いたところで僕なんかが何かできるわけじゃないのに。メンタルケアはクリアなんだろ。余計なことを言って揺さぶる必要なんてない)
思考にノイズが走る。胸の隅がざらつく感覚の正体が、カドックはいまひとつ掴み切れずにいる。
カドックは出てしまった言葉を取り消すために藤丸から顔を逸らしたが、藤丸はそんな彼の顔を大きな瞳で見上げながら口を開く。
「ありがとうね」
予想していたものとは違う言葉に今度はカドックが彼女をまじまじと見返す番だった。眉を下げてへらりと笑う顔はいつもの人好きのする顔だ。
「なんだ、それ」
辛うじてそれだけ絞り出すと、逃げるように目を伏せる。
どうしてそんな風に笑うのか。その笑顔の奥が気にかかってもそこから手を伸ばす術を知らない。自分の気持ちの在処も掴めず、もどかしさから拍車がかかったように鼓動が速くなっていく。堪らず奥歯を噛み、再び口を開こうとしたがそんなカドックを遮るように藤丸が声を上げた。
「カドックって優しいね」
「は?」
思わず間の抜けた声を出してしまったが、カドックはそんなことを気にする余裕もなかった。
何を言ってるんだ、コイツは……という疑念がそのまま顔に浮かんでいるのを自覚する。しかし藤丸には全然伝わってないらしい。彼女は屈託なく言った。
「わたしのこと心配してくれたんでしょ?」
「心配なんかしてない」
即答したが、藤丸はにこにこと笑っているだけ。カドックの頬は苛立ちと気恥ずかしさから瞬く間に朱に染まっていった。
「わたしは大丈夫だから」
その声は真摯な響きを持ってカドックの鼓膜を刺激する。カドックの鋭い眼差しをものともせずに、瞳は揺れることのない光を湛えていた。
ぶっきらぼうな態度を取る自分を見据える瞳と重なる視線に、カドックは形容できない情動を覚えずにはいられなかった。
底抜けに明るく振る舞っているわけではない。藤丸だって悲しみも苦しさも当たり前のように抱いている。しかし彼女はそれを含めて前を向いているのだと、その声で言葉が届く度にカドックは思い知らされる。
カドック自身も塗り固めて隠した感情と建前を引き剥がされて暴かれるような気持ちを味わい、いつしか心の揺らぎは激しくなっていった。彼女の視線を受け止めることができずに顔を背けると、気付かれないように息を落とした。
「──どうしたの?」
その声にうっすら目蓋を開けると、目前に藤丸の顔があった。
「ちょっ……なんだよ!」
ぎょっとして僅かに仰け反るが、その分彼女は距離を詰めてくる。ベッドに膝を載せ四つん這いのような格好をした藤丸は真っ直ぐにカドックの顔を覗き込んだ。琥珀色とアンバーの双眸がぱちりと噛み合う。
「だって変な顔してたから」
「だからっていきなり近づくな!」
動揺したままむくれたような声でそう言うと、藤丸はまじまじとカドックの顔を見た後でふっと相好を崩す。そのままベッドの端に体を移動させてそこに腰を下ろした。
今まで意識しないようにしてたベッドがふたり分の体重で小さく軋んだ音を立てる。
「おいそこに、……っ」
カドックは抗議の声をあげかけたが、それより先に藤丸の指がカドックの眉間に触れる。びく、と身を弾ませるカドックをよそに皺を伸ばすように指を動かすと、やがて離れた。
突然の行動にカドックが唖然としていると、藤丸は楽しげに笑った。
「眉間の皺深いよ。跡つく」
「……誰のせいだと」
「あはは、ごめん」
まるで反省していない表情でおかしそうに笑う。カドックの様子をうかがっているかと思えば、突然突拍子もないことをする。こういうところが苦手だと感じる部分なのだが、一方で嫌いになりきれないというのも事実だった。
人理を守る人類の最後のマスターという仰々しい肩書きの印象はどんどん薄れていく。カドックはその顔に目を奪われていることに気が付くと、唇をきゅっと引き結んで苦い表情を浮かべた。
心臓の音がうるさい。それを誤魔化すために悪態を吐く。
「距離が近いんだ、おまえは」
「え、そう? だめだった?」
何がいけないのか理解していないよう様子で首を傾げたのでカドックは本日何度目になるかわからないため息を零した。努めて冷静であろうとする一方で脈拍はどんどん上昇していく。
「僕が言うのもなんだがもうちょっと警戒心持て」
「カドックは大丈夫でしょ」
「は?」
「ほら、殺意とか感じないし」
へらへらしながらそう言い放ち、さらに「わたしに何かするつもりもないでしょ?」と続けるものだから開いた口が塞がらなかった。
信頼の表れのようだがカドックとしては複雑な気持ちだった。それでも藤丸は機嫌良さそうににこにこしているので何も言い返せなくなり押し黙るしかない。
(そうじゃないだろ……。何かするつもりだったらどうするんだ)
言えるわけもない言葉を呑み込みながら心の中で悪態を吐く。自分が言えた義理ではないのはわかっているが危なっかしい。これまでもきっと危険な状況というのは山ほどあっただろうにどうしてあんなにも無防備でいられるのか。それとも修羅場をくぐり抜けてきたことで生まれた、カドックには理解できぬ何かがあるのだろうか。
魔術師ですらない一般人の出で、魔術の世界を知り得ないまま飛び込んでしまい否応なく世界を救うことになってしまった人間だ。魔術師同士の腹の探り合いも、駆け引きも知らないままここへ来てしまった。
それでも自分にできることをやり遂げるのだと覚悟を決めている。
カドックの目の前にいるのは数多のサーヴァントを使役し人理修復を果たした藤丸立香で。そんな彼女だからこそサーヴァントだけでなくカルデアの面々から全幅の信頼と親しみを寄せられて今なお世界の命運を一身に担っている。
人理修復の過程で彼女は一体いくつの命を背負ったのだろう。大切な人の死を、絶望を幾つも繰り返した筈だ。凡人であれば心が壊れてしまいかねないそれらを背負って、それでも気丈に振る舞う彼女を凡百とはとても言いがたい。
藤丸の善性と彼女が内包する葛藤に触れるたび、カドックの心も揺らぎをみせる。
(お人好しすぎる)
純粋な羨望なのか、妬みや嫉みといった暗い感情なのか、それとももっと別の何かなのか。認めたくないものが混ざっている気がして咄嗟に考えを払う。自分の気持ちを深く追求して抉る必要はない。だが放っておける程無関心にもなれなくて、藤丸はただ側にいるだけでもカドックの心を波立たせていく。全部藤丸のせいだと半ば八つ当たりじみたことを考えながら再び心の内でぼやくのだった。
「また皺寄ってる」
その声に瞼の向こうから意識を戻せば、目の前に藤丸の顔があった。カドックはため息を吐くと彼女の眉間をぐりぐり押して遠ざける。
「いたたた」
「だから急に顔を近づけるな」
額を押さえた藤丸がむ、と唇を尖らせるのを見てカドックが口の端をあげる。その表情が珍しいものだったのか彼女は目を瞬かせた。
「あ、笑ったね」
「……」
カドックはなんとも言えない気分になったが何も言わずに藤丸を睨みつける。藤丸はそれさえも楽しそうに笑うと体を起こしてベッドから降りた。
「そろそろ集合だね」
「……そうだな」
これでこの奇妙な時間も終わりだ。そうと思うと心の何処かで名残惜しむ気持ちが湧く。しかしカドックはそれを見ない振りをしてベッドから腰を上げた。
トレーを持ってドアへ向かう藤丸に近づくと、横からそのトレーを掠め取り歩き始める。
「僕が持っていくから先に行ってろ」
藤丸は目を丸くしたもののすぐに表情を崩し「わたしも行く」と通路に出て並んで歩く。
「何かわかったかな。あの手術室にいた人のこと」
「どうだろうな。ダ・ヴィンチやシオンが解析しているから何もわかならいってことはないと思うが」
「そうだね」
藤丸はそう言うと押し黙る。あの遺体に対して思うことがあるのだろうか、とカドックはそう思いはしたが言葉をかけることはせず、歩調を合わせて歩いていく。
ふたり分の足音が通路に反響するなか、隣を歩く藤丸へちらりと視線を寄せる。藤丸もまたカドックを横目で見ていたようでお互いの視線がぶつかる。
「……何」
「ううん。別に」
心なしかすっきりしたような表情だったので気になって尋ねてみたがそんな返事だった。そのままカドックが注視していると琥珀色がふわりと瞬く。
「なんだか、カドックが隣にいるの馴染んできたね」
「は?」
「晴れてマシュとA′チーム組んだわけだし、頑張らないと」
そう言うと「気合いだ!」と拳を握り締めてみせる。相変わらず言動に脈絡がない。
「気合いが入るのは結構だけど、いきなり前線に突っ込むよう真似するなよ」
「し、しないよ!」
「どうだか」
ふ、と笑いを零す。視界の端に揺れていた明るい髪が自分の隣をゆったりと歩いているという事実にくすぐったさと形容しがたい感情を覚える。
頭の片隅にある消えない揺らぎは微かな熱を帯びていた。