水の中を揺蕩っているような感覚だった。ふわふわと、心地よくてずっとこのままでもいいとすら思った。でも、そんな僕を許さないとばかりに誰かが手を引く。
こっちだよ、こっちにおいで、と。
優しく誘う声に導かれるように、一歩一歩踏みしめて進んでいく。すると、だんだんと周りの世界が明るくなってきた。そしてその眩しさに耐えきれずゆっくりと目を開けた。ぼやけた視界が徐々にハッキリとして、最初に見えたのは橙色の髪。瞬きを繰り返して焦点を合わせる。
僕の前にいるのは──立香だ。
大きい瞳は閉じられていて、穏やかな呼吸を規則正しく繰り返している。その寝顔を見つめながらゆっくり記憶と思考力を回復させていく。ああそうか。昨日は立香とこのホテルで一晩過ごしたことを思い出す。
時計の針を見ればまだ朝の六時だ。起きる時間には少々早いが、一度目が覚めてしまうともう一度寝る気にはなれず立香の寝顔を眺める。
こうして眠っている時は年相応にしか見えないと思うのに、ひとたび戦いに出ればどんな状況でもあきらめることを知らない。自分のやるべきこと、できることを知っている。それが彼女の強みであり、僕はその強さを眩しく感じている。
そっと手を伸ばして頰を撫でるとその温かさを確かめた。彼女が間違いなく生きて今、ここにいるのだと実感する。その寝顔を見ているうちに、昨晩の光景がフラッシュバックしてきて頰に熱が集まるのを感じた。
あんな、獣のような衝動に任せて、僕は……。
何度も立香を求めて、彼女のなかを自分でいっぱいにして刻み付けたいと思った。そんな独占欲にまみれた感情をぶつけてしまったことに対する罪悪感と気恥しさが湧き上がる。この開放的な空間にあてられて、つい理性を失ってしまったのだ。でも、それは立香だってきっと同じだったはず。彼女も僕にしがみついて何度も求めてきたのだから。お互いがお互いに、いつもよりも激しく求め合ったのだと思う。
そんなことを考えていると立香が小さく唸って寝返りを打つ。起こしてしまったのかと一瞬ドキリとしたが、すぐに規則正しい寝息に戻ったことで安堵の息を漏らす。
立香の背中越しに見える窓からは朝日が差し込み始めている。波の音は静かで穏やかで、心地良い風がカーテンを揺らしている。
朝だ。何の変哲もない、ただの朝。
けれど隣で眠っている彼女の存在を感じるだけでいつもと同じ朝が特別なものへと変わっていく。
顔を覗き込んでこめかみに軽く口づけを落とすと、再びベッドに体を横たえる。そして、その細い体を抱き寄せた。柔らかな体に頰を寄せ目を閉じる。温かく優しい時間。
これから何度繰り返すことができるのだろう。こんな時間が、いつまで続くのかなんて誰にもわからない。
立香の未来と僕の未来の丈が交わる保証はない。
だから、どうか──今だけは。
そう願うことが許されるのなら。もう少しだけ、彼女と共に過ごす時間に身を委ねていたかった。
緩やかに流れる時間は僕たち二人を押し流し、意識とともに再び夢の世界へと運んでいった。
fin.