パチパチと火が爆ぜる音、木々が葉を揺らす音。そして遠くからは風の音に混じって虫の声がかすかに聞こえてくる。ひやりと肌を撫でる夜風を感じてゆっくりと瞼を持ち上げた。ぼやける視界に映ったのは、洞窟の入り口で焚き火を囲むように座っているカドックの姿。白銀の髪は炎の色を映して赤く輝いている。魔術礼装の白いコートを肩にかけたまま、少し背を丸めて焚き火に枝をくべていた。
ひとり静かに、その眼差しの先、揺らめく炎をじっと見つめている。
わたしたちは今、森の中にある洞窟で野営をしている。五日前に微小特異点修復のため、わたしとマシュ、同行サーヴァントのケイローン、そしてカドックの四人でレイシフトを行った。そして現地調査を行った結果、特異点の核と思わしき敵性生物を発見。その場で戦闘となり勝利したものの消滅の瞬間、聖杯の影響なのか突如周囲の魔力濃度が急激に上昇、それに伴い空間の歪みが発生した。その歪みに飲み込まれたわたしたちは気がついたら見知らぬ土地に放り出されていた。
幸い、聖杯は回収済みであることとカルデアとの通信は繋がっており現在地も判明している。だけど霊脈が弱く帰還のためのレイシフトは困難であった。そのため霊脈のあるポイントまで移動し帰還を目指すことになった。そして今日、一日中歩き続けて魔獣との戦闘をどうにか切り抜け、この洞窟に辿り着いた。
というのが今までの経緯。洞窟の奥は行き止まりだったけれど、入り口付近はそれなりに広くて野営をするには充分なスペースがある。レイシフト中は野営が多いから、こうして夜を過ごすのもすっかり慣れてしまった。
隣に視線をやれば、マシュが壁にもたれかかるようにして眠っている。薄い毛布に包まって、すうすうと規則正しい寝息を立てていた。常に私の身を案じてくれる、頼れる後輩。マシュのあどけない寝顔を見ていると癒される。
一方、カドックは焚き火から少し離れた位置に腰を下ろして、静かに炎を見つめていた。炎に照らされた横顔は、物思いに耽っているようにも遠くを見つめているようにも見える。眠りにつく前は三人で仮眠をとっていたけれど、いつの間に起きたんだろう。
薄暗いなか、彼の姿をじっと見つめる。こんな風に彼と共に特異点修復をするようになるなんて、あの頃は想像もしていなかった。異聞帯、クリプターとカルデアの戦い。本当に……本当に色々あったけれど、今こうやって一緒に行動できていることを頼もしく思う。
それと――
指が唇に触れる。そこにカドックの唇が触れた。好きだと言われ、想いに応えて口づけを交わした。熱くて、柔らかくて、心地よくて、蕩けてしまいそうな感覚。体にまわされた腕の力強さと、心臓の鼓動。そのままひとつになってしまいそうなほど近くに、カドックの熱を感じた。
あれから五日経っているけど、わたしもカドックもそのことに関しては一切触れていない。作戦行動中は目の前のことに集中していた。だけど特異点修復も完了しカルデアへ帰還が近付いてくると少しだけ、心に隙ができる。
漏れた吐息が微かな音とともに空気に溶けた。火照った頬に手を当てる。
まさかカドックに対してこんな気持ちを抱くなんて。しかもカドックも自分と同じ気持ちでいてくれたなんて嘘みたいだ。間違いなくわたしのこと嫌っていたはずなのに。
でも、特異点や異聞帯で一緒に戦って同じ時間を過ごすうちに、少しずつ彼のことを知った。少し気難しいところ、真面目で努力家なところ、皮肉ばかり口にするけれど面倒見が良い。彼が見せる不器用な優しさが、わたしは好きになっていた。
一緒にご飯を食べたりトレーニングしたり……前よりも距離が縮まった気がして。もっと話したいなとか、カドックのことを知りたいって思っていた矢先のことだった。
目を閉じると、あの時の記憶が蘇ってくる。カドックの唇は思ったより柔らかくて弾力があったなとか、そういえば鼻と鼻が触れ合った時は少しくすぐったかったなとか、色々思い出して……ドキドキ、する。わたしの中にはまだあの熱が燻っている。残火のように体の内側からじりじりと焦がすような。
カドックはどう思ってるんだろう。次に二人きりになったらキスだけじゃ終わらないから、みたいなことを言われたけど……。それって、つまりあれだよね。そういう意味だよね。カドックとキス以上のこと、しちゃうってことだよね。
思考があらぬ方向に傾いていき、途端に恥ずかしくなってきた。カドックはそういうことをしたいと思っている……?
わたしたちって恋人、でいいんだよね。
つい先日のことなのに現実味がなくて、でもあの時のカドックの熱っぽい視線は本物で。わたしにはいろんなことが未経験すぎてわからないことばかりだ。知識としては知っているけど、カドックと自分が……何だか想像できなくて。
そういう雰囲気になったとき、逃げずに向き合えるだろうか。
でも、もし求められたら、わたしはきっと――
思考に耽っていると、ふいにカドックがこちらを向いた。視線がばちりとかち合い金色の瞳が僅かに見開いた。瞬きを繰り返して何か言いたげに口を開いたけど、それは言葉にならずすぐに唇を引き結ぶ。
――え?
一瞬躊躇うように目を伏せ、それから再びこちらに向いた瞳。その眼差しが、なんとなく……呼ばれてるような気がして。
吸い寄せられるようにゆっくりと体を起こした。足音を立てないようにそっと出口へ向かう。洞窟の外は木々の間から差し込む月明かりで照らされており、梢の擦れる音が優しく耳をくすぐる。澄んだ空気を吸い込むと、カドックのそばへと近付いた。
「起きてたんだね」
声をかけると、カドックがわたしを見上げる。
「ああ」
「ケイローンは?」
「霊体化して周囲を見張ってくれている。日が昇ったら戻ると言っていた」
「そっか」
焚き火を挟んでカドックの向かいに座ろうと腰を下ろしかけたところで、彼に名前を呼ばれる。
「こっち」
トントン、と彼の手が指し示したのはカドックの隣。
「隣にいた方が小声でも、聞こえやすいだろ」
ぽかんと見つめ返す私に、カドックはそれっぽい理由をつけて隣に座れと促す。むず痒いようなくすぐったい気持ちが湧き上がって口元が緩んでいく。
彼の隣、拳二つ分ほど空けるように腰掛けた。なんとなく顔を見れなくてそのまま視線を動かすと、木々の隙間から星が煌めく夜空が見える。流れゆく小さな星たちは闇の中で懸命に光を放つ。手を伸ばせば届きそうで、でもいくら手を伸ばしても触れることはできないもの。
形があるようでないような。遠くて近い不思議な輝きにただ静かに目を奪われた。
「静かだね。動物の声も聞こえない」
「獣除けの術式をかけてるからな。近くには寄ってこないだろ」
「なるほど」
「念の為だ。危険は避けるに越したことはない」
ぽつりぽつりと言葉を交わす。本当に静かな夜だ。時折聞こえる焚き火の爆ぜる音が、静寂を破る唯一の音だった。静けさに耳を澄ませていると両肩に温もりを感じた。見慣れたファー付きの白いコートが視界の端に映る。カドックが自身のコートをわたしにかけてくれたのだと、一拍遅れて理解する。カドックの体温が残るそれは、ほのかに暖かい。
「ありがとう」
小さく呟いて、コートの襟元を引き寄せた。上質なファーの触り心地とカドックの香りが、まるで腕の中に閉じ込められているようで。ふふ、と口元を綻ばせる。
「……なんだよ」
隣から聞こえた声は、少し拗ねたような響きで。
「ううん。あったかいなって」
「風邪引かれちゃ困るからな」
言葉は素っ気なくても、カドックの行動の端々には気遣いが感じられる。彼なりの優しさに触れるたび少しずつ胸の奥に熱が灯っていく。まるで色づく蕾がゆっくりと綻ぶように、じわじわと。
「それにしても、今日は参ったね。まさかこんなところまで飛ばされるなんて」
「でも全員同じ場所だったのは不幸中の幸いだった。これが散り散りだったら合流は困難だっただろうな」
「確かに。あ、たまにね、レイシフトしたとき座標がズレて空に放り出されることあったけど、それ思い出したよ」
「マジか……」
苦い顔をするカドックに、あははと笑う。
「いつかカドックも経験するかもね」
「勘弁してくれ」
そう言うと大袈裟にため息をついた。会話はそこで途切れ、また静寂に包まれる。揺らめく炎がわたしたちの影を揺らす。夜はまだ明けない。何か話題を、と言葉を探すけれど浮かんでくるのはどうでもいいことばかりで。
少しだけ迷ってから、わたしよりも高い位置にあるカドックの顔を見上げた。カドックも同じように私の顔を見下ろしているけれど、その視線はわずかに逸らされている。
「……カドック?」
呼びかけると、少しだけ口ごもったあと、小さな声で呟く。
「悪い。このタイミングで二人になれると思ってなかったから何を話せばいいかわからない」
ボソボソと歯切れ悪くそう言って、後頭部を掻く。カドックの顔が赤らみ、気恥ずかしそうに視線を地面へと落とした。その仕草にきゅう、と胸の奥が締め付けられる。いつも冷静な顔をしているし口数も多い方ではないけれど、彼も彼なりにこの状況を意識してくれていたんだとわかって嬉しくなった。
「わたしもね、同じこと考えてた」
同じように照れくさい気持ちではにかむと、カドックはホッとしたように眉尻を下げた。それからお互い少しだけ笑い合い、とりとめのない話をぽつりぽつりと交わす。
「今日のペースだと、明日にはポイントに到着できるかな」
「そうだな。道中で何もなければ」
「フラグっぽいんだよなー」
「おい……トラブルのきっかけは大抵おまえだからな。少しは慎重に行動しろ」
「すみません……」
返す言葉もなく俯くと、カドックが小さく笑った。揺れる炎に照らされた金色の瞳が伏し目がちに細められて瞬きのたびに煌めく。カドックってやっぱり綺麗な顔してるな、なんて思いながら見つめていれば、また視線がぶつかった。上目遣いで見上げられ、それを合図に二人とも口を噤む。
沈黙が、二人の間を満たす。
瞳が揺れて月明かりに溶ける。息を吐く声が聞こえたあと、カドックのしなやかな指先が伸びてきた。頬に触れる指先は少しかさついていて内側で燻る熱がまたじわりと熱を帯びてくるような感覚。初めての口付けを思い出して、小さく息を詰めた。
だけど、予想に反してカドックは頬から手を離すと自身の前髪を髪をくしゃりと握り込む。
「ごめん」
「え?」
少し掠れた声でそう告げるとカドックは顔を背けた。そっぽ向いた頬は微かに赤く色付いている。
いま、キスされるかと思った。だって、すごく、そういう雰囲気だったし。
「……しないの?」
カドックの手が離れたとき少しだけ落胆した。キスを期待している自分がいた。もう一度触れてほしい、あの熱がほしいと。
だから。思わずそう口走った。
「っ、あのな……!」
顔を赤くして私を睨みつける。でも、その目に宿るのは怒りというよりも困惑で。彼の整った眉がしかめられて眉間に皺が寄った。そして、はぁぁと大きくため息をつくと、今度は片手で自身の顔を覆った。
「今は、ダメだろ。任務中だ」
指の隙間から私を見つめる。その瞳にはどうしようもないほどの熱と、理性。彼の葛藤が透けて見えるようだった。カドックの言う通り今はまだ任務中。不用意に気を抜くわけにはいかない。それはわかっている。
「あはは。そうだよね」
頷きながらへにゃりと眉尻を下げた。カドックの言ってることは正しい。だけど、わたしを映す金色があのときと同じように揺らめいている。その瞳で見つめられると胸の奥が疼くような、そんな心地になる。
どうしよう。わたし、欲張りになってる?
そんな心の声が聞こえたのか、カドックはぐぐ、と口元を歪めたあと再びため息をついた。
「カルデアに戻ったら、僕の部屋に来るんだよな?」
「へっ」
レイシフト前の会話を思い出す。確かに、カドックの部屋に行きたいと言った。言ったけれど。改めてそう聞かれるととんでもない約束してしまったのでは。いや、約束というか自分からそう提案したわけだけど。じわじわと顔に熱が集まっていく。それを誤魔化すように「あっ、あぁ、まあ……」と曖昧な返事をすれば、カドックの眉間にまた皺が寄った。
「言ったよな」
「い、言った。けど」
「けど、何」
「カドックが、覚悟してこいって」
──次はキスだけで終わりそうにないから。覚悟してきてくれ──
耳元で囁かれた言葉が蘇る。あんなふうに言われたら、誰だって意識するし身構える。カドックも思い出したのか、頰が赤く色づいていく。
「……そう、だけど。そうじゃなくて」
いや、違わないが……小声でぶつぶつ呟い後、はぁ、とひとつ大きく息を吐き出す。
「あれは、勢いだったというか。焦りすぎた」
「焦ってた?」
「藤丸に振り回されてばっかりだったのが悔しかったんだよ」
ふん、と鼻を鳴らされた。
「じゃあ、カドックの部屋に行っても何もしない?」
「それは……」
言葉を詰まらせ、それから小さな声で「無理」と付け足される。控えめに言い切る姿がおかしくて、つい吹き出してしまった。
「何もしないのは無理だろ……」
「うん。私も。意地悪なこと言ってごめん」
カドックの手が再び私の頰に触れた。まだ少しだけ熱が残っている。私も、きっと彼も余裕なんて少しもないのかもしれない。お互いになんとなくそれを感じ取っている。
「覚悟してこいなんて言い方をしたけど無理強いするつもりはないから」
「うん」
「僕に体を預けるかどうか、ちゃんと考えて欲しい」
「うわあ」
「何だよ、その反応」
「いや、だって……なんか、その」
急に生々しい話になったから。なんて言えるはずもなく口ごもる。ものすごく恥ずかしいことを言われている気がするのに、カドックは涼しい顔をしている。わたしの一挙手一投足を窺う瞳、言葉にされない明確な意思がわたしの言葉を待っている。頰が、耳が、熱くなっていく。
「そっか……そう、か……」
なるほど、と何度も心の中で呟く。告白、キス、そして。もうそれだけでいっぱいいっぱいだっていうのに次々とハードルを越えていく。カドックの、そこに込められたわたしへの気持ちの大きさが、胸に迫って苦しくなる。
恥ずかしさ、喜び、ときめき……それらを詰め込んだような感情はきらきらと輝きを放ってわたしの心を包み込む。思わず「カドックって、わたしのこと好きなんだね」と呟くと、彼の肩がぴくりと跳ねた。
「はぁ?」
思いっきり不機嫌そうな顔で、何を今更と言わんばかりに睨まれる。
「信じてなかったのかよ」
呆れた声と共に、はぁ、ともう一度深いため息が落とされる。
「そうじゃなくて、改めて自覚したっていうか」
「おまえなあ……」
はにかむように表情が緩むのが見える。いつもみたいな小馬鹿にした雰囲気ではなくて、優しさを滲ませた柔らかな表情。あ、こんな笑い方するんだって初めて知って、それをわたしに見せてくれているんだと思ったら胸の中がまた甘く痛んだ。
誰かを好きになってこんなに気持ちが昂るなんて知らない。初めて知る感情が、わたしの知らないわたしを暴いていく。きっとこれからも。
カドックとこれからも共にいたい。
そう願う想いが、わたしを揺り動かす。
胸の痛みが、甘さをはらんだ恍惚が、じわりと広がって喜びへと変わっていく。無意識のうちに手が伸びた。心の動くままカドックの腕にしがみつく。
「おいっ」
焦ったような声。ぎゅうぎゅうと力を込めれば、カドックは困惑しながらも受け入れてくれた。
「わたし経験ないから。カドックが教えてくれる?」
おそるおそる見上げると、カドックは顔を真っ赤に染めてわなわなと唇を震わせた。
「〜〜そういうところなんだよ! くそっ」
絞り出すように吐き出された言葉に、また笑ってしまった。悔しそうな、怒ったような。それでいて嬉しさを隠しきれない顔。この表情を見るのは二回目だ。わたしを求めてくれたあのときも、カドックはこの顔をしていた気がする。そう思うと、頰が勝手に緩んでいった。
肩にまわされる腕が温かい。炎に照らされてふたつの影がひとつになる。絡まる指先に力を込めて、寄り添い合って心を重ねる。静寂に包まれた森のなか、わたし達はそっと身を寄せ合う。
夜空はだんだんと霞んでいき、曙色の空がゆるやかに朝を連れてくる。鳥の声、揺れる木の葉の音、水気を含んだ草木の匂い。その全てが色づいていくようだった。