indigo elegie

あなたに近づきたい

 キラキラと輝くイルミネーションが街を彩る。師走に入り一年の終わりも近づきつつあるこの季節に、人々は少しばかり浮かれているように見えた。クリスマスツリーを模した街路樹や、サンタやトナカイをモチーフにしたモニュメントなどが至る所で目に付くようになるのはやはりこの時期ならではの光景だろう。白い息を吐きながら、人混みの中を縫うようにして進む人々もまた、どこか心待ちにしているような表情をしていた。
 誰もが浮かれるこの季節に、私は三年付き合った彼氏と別れた。正確には浮気された。久しぶりに仕事を定時で終えて彼の家に行くと見知らぬ女がいた。彼は浮気相手を選んで私を捨てたのだ。

「あー、最悪……」
 思わず呟いた声は白く曇り、夜空へと消えていく。今年のクリスマスは一人きりで過ごすことになりそうだな、なんてことを考えてまた気分が落ち込む。別に一人でクリスマスを過ごすのは初めてのことじゃないし、今更どうということはないんだけど、それでもやっぱり虚しいものは虚しい。
 街灯が照らす夜の道をトボトボと歩く。独りぼっちになった途端、急に身体が冷えてきた気がした。何だか物凄く惨めな気分になってくる。このまま家に帰って布団を被って寝てしまいたい。だけどまだ家には帰りたくない。そんな相反する感情を抱えたまま、当てもなく歩いているうちに会社の近くまで来てしまった。
 時計を確認すれば午後九時を指している。まだ誰か残っているだろうか。同僚のハンジやナナバがいれば飲みに誘って愚痴を聞いてもらいたい。そう思ってビルの前まで来たものの、オフィスが入居しているフロアの灯りは点いていない。どうやらみんな帰ってしまったようだ。
 一人で飲むしかないか……。
 諦めて駅に向かおうとしたときだった。
「ここで何をしている」
「へ?」
 低く静かな声が聞こえた。驚いて振り返るとそこに立っていたのは営業部のリヴァイ課長だった。私の直属の上司であり、社内でも評判のやり手として名を馳せている人だ。切れ長の目と鋭い眼光からは冷たい印象を受けるが、部下思いな一面を持っているため男女問わず慕われている。かくいう私も頼れる上司を尊敬している。他部署からも人気を集めている上司だが他人を寄せ付けない雰囲気を持っているせいか、アプローチする人はあまりいないようだ。
「お、お疲れ様です」
 思わぬ人物の登場に慌てて頭を下げると、課長は怪しげな目を向けてきた。それも当然だろう。定時にさっさと退勤した部下が、こんな時間にオフィスの目の前にいるのだ。変に思われても仕方がない。何か上手い言い訳を考えなければと思った矢先、課長の方から口を開いた。
「なにか忘れ物か?」
「え? ああ、いえ、そういうわけではないんですけど……」
 咄嵯に取り繕った言葉を返したが、課長は黙ってこちらを見つめていた。その目は疑っているようにも見えたし、興味があるようでもあった。誤魔化そうと思ったものの上手い言い訳が思い浮かばない。仕方がなく本当のことを言うことにした。
「えっと、急に飲みに行きたくなりまして。会社に誰か残ってないかな〜なんて思って……はは……」
 課長は相変わらず無表情でこちらを見ている。彼氏に振られたことは言わずに、仕事帰りに一杯やろうと急に思い立って会社に立ち寄ったってことにした。
「でももう誰も残ってないみたいですし帰ります」
 失礼します、と頭を下げてその場を立ち去ろうとしたが「待て」と呼び止められる。
「え?」
「飲みに行くんだろ」
「へ……?」
 思わず気の抜けた声が出てしまう。まさかとは思うけど、一緒に飲んでくれるつもりなんだろうか。
 課長が? 私と?二人で?
 突然の展開に戸惑っていると、目の前までやってきた課長がじっと見つめてくる。
「なにを呆けてやがる。行くのか行かねえのかはっきりしろ」
「い、行きます!」
 反射的に返事をすると、課長はさっさと行くぞと言って歩き始めた。どうやら本当に一緒に飲みに行ってくれるらしい。慌てて後を追いかけていくと、不意に立ち止まり振り向いた課長と視線が合った。
 薄暗いオフィスに灯る蛍光灯の光が彼の白い頬をぼんやりと照らし出している。澄んだ灰青色の瞳は相変わらず感情が読み取れなかったが、なんだか緊張する。
 妙なことになったなと思いつつも、こうして私は初めてリヴァイ課長とプライベートな時間を過ごすこととなった。

▽▼▽

 会社近くの繁華街にある居酒屋に入ると、そこは仕事帰りのサラリーマンで賑わっていた。課長と二人カウンター席に並んで腰掛ける。私は生ビール、課長は日本酒を注文した。カウンター越しに渡されたグラスとお通しを受け取り、お疲れ様でしたと軽くグラスを合わせる。コクリと喉を動かすと冷たいビールが乾いた喉を潤していった。冷えた身体にアルコールが染み渡っていく感覚がたまらない。思わずふうっと息を吐き出す私を課長は横目見て、自分も一口日本酒を口に含んだ。
「何かあったのか」
 料理が運ばれてくるのを待っていると、不意に課長が話しかけてきた。静かな声音は騒がしい店内の中でもはっきり耳に届く。
「えっ? 何かって……」
 突然のことにドキリとして言葉に詰まる。課長は相変わらずの仏頂面でこちらをじっと見ている。
 何があったかだって? めちゃくちゃありますよ。つい先程失恋したところなんだから。
 心の中の叫びをそのまま口に出来るはずもなく、私は曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。課長には関係のない話だ。私のつまらない愚痴を聞かせるわけにもいかないし、言ったところで気分を悪くさせるだけだ。
「いえ、別に何もありませんよ」
 そう言って曖昧に笑って誤魔化した。課長は私の答えに納得していないような表情を見せたが、それ以上追及してくることはなかった。
 その後運ばれてきた料理を食べながら、普段の業務についてや仕事に関するあれこれなど、他愛もない話をした。課長と一対一で飲むのは初めてだったが、意外と話が盛り上がった。口数は少ないがちゃんと話を聞いてくれるし、的確にアドバイスをくれるので話しやすい。会社の飲み会でもこんな風に話をしてくれることはないから新鮮だった。課長とプライベートな時間を過ごすのはなんだか緊張すると思っていたが、それは杞憂だったようだ。

 しばらくして程よく酔いが回ってきた頃、話はいつしかプライベートな話題へと変わっていった。
「で、彼の部屋を訪ねたら知らない女がいるし、問い詰めたら『この子が好きだから別れてくれ』って。とっくに付き合ってて二股バレたらこれですよ。相手の子もウルウルした瞳で『好きになった私が悪いんです……』なんて言っちゃって。え、私が悪者ですか? 二人の世界を見せつけられて私の立場は? も〜ぽっきり折れちゃいましたよ」
 惨めな元彼語りをして盛大にため息を吐いた。いつもより速いペースで次々とアルコールを摂取していったせいで、かなり酔っ払っている自覚はある。飲み過ぎだなと思っているけど、私の口は止まらなかった。課長は私の話を黙って聞いてくれている。結局、ペラペラと愚痴を課長に聞かせてしまった。
 こんな情けない話を聞かせるのもどうかと思ったが、この鬱々とした気持ちをどこかに吐き出したかった。
「クズだな」
 ボソリと課長が呟く。ストレートな物言いに思わず笑ってしまった。
「本当、クズですよね」
そう言ってまたグラスを傾ける。ビールの泡が消えてただの苦い液体になっていたが、構わず呷る。喉を焼く感覚が心地よいと思ったのも束の間、すぐに頭がフワフワしてくる。
「でも、そんな男と三年も付き合ってたなんて。私も馬鹿な女です」
 ハハ、と笑ってから唐揚げを口に放り込む。美味しいはずなのに何だか味気なく感じて、悔しさと悲しさが入り混じった気持ちが込み上げてきた。涙腺が緩みそうになるのグッと堪えてグラスを傾ける。課長はこちらをチラリと見たかと思うと、徐に口を開いた。
「お前は馬鹿じゃない」
 淡々とした口調で課長が口にする。
「クソ野郎のために自分を卑下するな」
 それだけ言うと再び静かに酒を飲み始めた。飾らない言葉だけど心のこもったそれに、我慢していたものがじわりと目に滲んできた。グラスを持つ手が震える。
 泣くもんかと思っていたのに、とうとう堪えきれなくなってぽろぽろと涙が溢れてくる。別れた彼のことを思い出しては苛立ちや悲しさが込み上げてきて、涙となって溢れていく。そんな私を見た課長は、何も言わずにおしぼりを差し出してきた。小さな声ですみませんと呟くと目元にあてる。
 泣くつもりなんてなかった。ちょっと愚痴を聞いてもらってスッキリするだけのつもりだったのに。失恋の痛みは予想以上だ。
 課長はこちらを覗きこんだりすることなく、ただ静かに酒を飲んでいる。課長なりに慰めてくれているのかと思うと余計に泣けてきて涙が止まらなかった。
 ひとしきり泣いた後、おしぼりでそっと目元を押さえつつ顔を上げた。
 目が熱い。充血しているのが自分でもわかるし、鼻も詰まっている。
 課長は相変わらず表情ひとつ変えないで酒を呷っていた。
 落ち着きを取り戻すと、今度は恥ずかしさがこみ上げてきた。いい年した大人が人前で泣いてしまったのだ。しかも相手は上司。今までプライベートな話もほとんどしたことがなかったし、一緒に飲むことだって初めてだ。こんなみっともない姿を晒したことが少し後悔される。
「おい」
「はい!?」
 不意に声をかけられてビクリと肩が跳ねた。
「落ち着いたか?」
「あ、はい。お見苦しいところを……その、すみませんでした」
 慌てて頭を下げると、課長は気にする様子もなくグラスに入った酒を飲み干した。空になったグラスをことりと置くと、静かに口を開く。
「いや。そう見苦しくはなかった」
「え?」
 思わず聞き返すと、課長は答えることなく手元のメニューに目を落とした。じっと見つめていると「まだ飲むか」と声をかけてくる。その口調はいつもと変わらず、淡々としていた。課長の言葉の意図を考えようとしたが、酔いが回ってきたこともあり上手く頭が回らない。まあいいか……と考えるのを放棄してビールを追加した。残っていた唐揚げも口に放り込む。さっきより美味しく感じられて自然と口元が緩んでしまった。
「スッキリしたらお腹空いてきちゃいました。おつまみも追加していいですか?」
「好きにしろ」
 課長の許可が出たので、焼き鳥や枝豆を追加で注文する。課長は隣で黙って酒を飲み続けていた。特に会話が盛り上がるわけでもなく、かといって居心地が悪いわけでもない。穏やかな空気が流れていた。
「不思議ですねぇ」
 しみじみと呟くと、課長はこちらをチラリと見た。自分が泣いているところも全部見られているし今更取り繕うことはないだろうと思い、思ったままを口にした。
「まさか課長の前で泣くとは思いませんでした。しかも失恋話で」
 あはは、と乾いた笑いを漏らす。課長は呆れているのか、気にしていないのか。表情からは読み取れない。
「部下が落ち込んでたら話を聞くくらいする」
「プライベートな話でも面倒見てくれるんですか?」
「それは場合による」
 表情を変えることもなく淡々と返される。なんだかいつも通りの対応がどこか嬉しくて自然と笑みがこぼれた。変に言葉を飾って慰めるでもなく、仕事中と変わらず素っ気ない態度を取ってくれるのが有り難かった。
 料理が運ばれてくるまでの時間、ぼんやりとこれまでを振り返る。社内では鬼だとか言われて恐れられているが、こうやって静かに飲みに付き合ってくれる優しい人だ。いつも眉間にしわを寄せて険しい顔をしているから誤解されやすいが、課長なりに部下のことを気にかけてくれているのだと思う。厳しいけど部下を大切に思っている人だ。
「ありがとうございます」
 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で礼を言うと、課長は微かに口端を上げたような気がした。もしかしたら気のせいだったかもしれないけど。少しだけ課長との距離が縮まったような、そんな気がした。

▽▼▽

 店の外は冷え込んでいて酒で火照った身体を一気に冷ますような風が吹く。思わず身震いをしてコートの襟をかき合わせる。ふと隣に目をやると、課長がハァと白い息を吐いていた。
「今日はありがとうございました。あの、支払いまでしてもらって……ご馳走様でした」
 深々と頭を下げると、課長はちらりとこちらを一瞥してから歩き始める。私もその後を追って課長の隣に並ぶと、地面を踏みしめるヒールのコツコツとした音が響いた。
「気晴らしになったならそれでいい」
「はい! おかげでスッキリしました」
 吹っ切れたわけじゃない。多分、しばらくは引きずってしまうと思う。だけど、話を聞いてもらって少し気持ちの整理ができた。
「恋愛はしばらく休憩します」
 これからは仕事に生きますから、と拳を作ってそう言うと課長は「そうか」とぽつりと言った。
「仕事に打ち込むのは結構なことだが、別に恋愛を休む必要は無いんじゃねえか」
 課長は歩みを進めながらそう言った。思わず立ち止まりきょとんとする私に視線を向けると笑みを覗かせるように口端を上げた。
 一瞬のことだった。息を呑む間もなく、すぐにいつもの表情に戻る。課長の笑顔は想像以上に柔らかくて、不意打ちのように向けられたそれに鼓動が跳ねた。
 これが、ギャップってやつなのか。
 普段見られない男の無防備な笑顔は反則だ。無性に恥ずかしくなり赤くなった顔を隠そうとマフラーを鼻先までずり上げる。そんな私のことなど気に留めることもなく、「帰るぞ」と言って駅へ向かって歩き出した。その隣を慌てて追う。

 イルミネーションが彩る夜の街を並んで歩く。あんなに重く感じた足取りは、気付けば随分と軽くなっていた。

 

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