ふわふわと漂う意識が、少しずつ明瞭になっていく。瞼を透かす淡い光は朝のそれだ。目を覚まそうとする脳の指令は、まだうまく身体まで届いていないらしい。薄く開いた目には部屋の天井が映る。
見慣れた自室の──自室?
瞬きを二度、三度。ここは私の部屋、じゃない?
ぼんやりした頭でそう思った瞬間、ようやく身体が覚醒しはじめる。素肌に触れるシーツは柔らかく、あたたかくてさらりとしている。まるで絹か何かみたいだ。ベッドもやけに大きくてふかふかしている。飛び起きた私は、途端に襲ってきた眩みに頭を押えてうずくまった。
頭がガンガンする。そしてはだけたシャツの隙間から見えた自分の胸元に愕然とした。覚えのない紅い痕がある。慌ててシャツの前を合わせ、辺りを見回す。
何これ。なんなの。
パニックを起こしかけたところで、ドアノブの回る音がして、足音とともに人の気配が現れた。入ってきた人物の姿を認めて、さらに愕然とする。
どうして彼がここに。
「目が覚めたか」
淡々と、抑揚なく言って彼はこちらへと歩み寄ってくる。
「リ、リヴァイ」
混乱したまま掠れた声で名前を呼ぶと、彼の視線がちらと動いた。シャワーを済ませたばかりなのか、彼の髪はまだ少し濡れているようだ。普段よりいくらかラフに見えるシャツ姿だったけれど、それでもやはり隙というものを感じさせない立ち居振る舞いで、ゆっくりと目の前までやってきて、しゃがみこむ。
「身体はどうだ」
「えっ、え?」
状況把握もままならないままに、彼がそっと頬に触れてくる。指先の温度が低いのか、それとも単に私が熱くなっているのか、ひやりとした感触にぞくりと背中が粟立った。反射的に逃げようとしてしまった私を宥めるように優しく頬を撫でられる。そこでようやく、自分が今どういう状態なのか理解した。昨夜の記憶がフラッシュバックのように蘇る。
『ああっ……』
熱い息遣いと、肌を打つ音。全身を巡る快感。絶頂に上り詰める寸前まで焦らされて、懇願させられて、それから……。
「思い出したか」
ぼそりと呟いた彼に、一気に顔中が熱くなる。
ああ、そうだ。私たち、昨日。
「うそ……」
消え入りそうな声で言う。身体の奥に残る疼きと違和感。これがその証拠だというように、耳奥にはリヴァイと自分の乱れた呼吸が残っている。でもまさかそんなことあるわけない。だって彼は、同期で、同僚で、ずっと友達で。そういう関係ならないはずなのに。どうしてこんなことになっているんだろう。
昨日はいつもの同期会のあと、飲み足りないというみんなに合わせて二次会に向かった。行きつけの店とは違ったけれど、料理は美味しかったし雰囲気もよくて、つい調子に乗って飲み過ぎてしまった。気づけば終電を逃していて、タクシーを使って帰ることになったのだけれど、そこにリヴァイがいて。帰る方向が同じだからとタクシーに乗せられた。そこまではいい。問題はその後だ。タクシーの運転手さんがよく喋る人で、ひたすら聞き役に徹していた私は眠気に負けそうになっていた。だから、リヴァイが何か話しかけてきたときも、適当な相槌しか打っていなかった気がする。そしてタクシーを降りてから先も記憶がない。いや、ぼんやりと覚えていることはある。お酒のせいで火照った私の手をリヴァイが握ってくれたこと。そして、その手に導かれるように歩いていったこと。それがとても安心できたことも。
断片的な記憶しかないせいか、まるで夢の中にいるような感覚だ。でもこれは夢じゃない。身体中に刻まれた印が全てを物語っている。
「な、なんで? どうして私とリヴァイが」
混乱して訊ねると、リヴァイが眉間にシワを寄せた。怒っているような、呆れているような表情のまま、私の顔を見つめている。
「なんでって。お前が誘ったんだろうが」
覚えてねえのかよ、とため息混じりに言われて、ますますパニックになる。
「誘った? 私が? リヴァイを?」
意味がわからなくて問い返すと、今度は舌打ちされた。本当に何が何やらわからない。誘うって、どういうことだっけ。
「昨日、俺はお前を送ったあと家に帰るつもりだったんだよ。なのにお前ときたら俺の腕にしがみついて離れやがらねぇ」
「……」
「挙句に『今夜は一緒にいて』とかなんとか言い出しやがる」
「はっ!?」
昨夜の出来事を聞かされて、私は口を開けたまま固まるしかなかった。そんな馬鹿なことをするなんてありえない。でもあの時の私は完全に酔っていたし……。もしかしてお酒のせいで理性を失ってしまったのだろうか。
よりによって、リヴァイ相手に。
リヴァイとは新入社員研修で同じグループになったことがきっかけで親しくなった。第一印象は目つきが鋭くて怖かったけど、話してみると意外と優しくて面倒見もいい。口数が少なくぶっきらぼうに見えるけど、それは不器用なだけで決して冷たいわけじゃない。そして実はすごく仲間思いの人間だということも。見た目のわりに面白い冗談を言うし笑えるエピソードも多い。リヴァイといるのはとても居心地が良くて自然体でいられた。リヴァイもまた、私のどんなにくだらない話でもちゃんと聞いてくれる。たまに鋭いツッコミを入れてくることもあるけれど基本的に優しいのだ。同期の中では誰よりも気が合う相手だった。
それがどうして、あんなことを。
「嘘だ」
「嘘じゃねえ」
「だってそんな、リヴァイを誘うなんてあり得ない」
恥ずかしながら一夜だけの関係は過去にも何度か経験している。彼氏がいない時、どうしても寂しい時に割り切った相手と関係を持つ。だけど酔っ払った勢いで同僚に手を出したりしたことは一度もなかった。
「後悔してんのか」
黙り込んでしまった私に、彼が問いかけてくる。その声色はいつもと同じ落ち着いたトーンだった。リヴァイはどうして平然としていられるんだろう。私はこんなに動揺してるっていうのに。
それに、潔癖のきらいがある彼がいくら誘われたからって付き合ってもいない女とセックスしたという事実に違和感を覚える。何かおかしい。もしかして、リヴァイも酔っ払っていたのかも。それで判断力が鈍っていてこんなことになってしまったのかもしれない。きっとそうだ。それ以外に考えられない。
そう結論づけると、私は意を決し、ベッドの上に正座した。
「ごめんなさい!」
リヴァイに向かって深々と頭を下げる。
「昨夜のことは忘れてください! お願いします!」
「は?」
「お酒の問題じゃないかもだけど、とにかくなかったことにしてください!」
「断る」
必死で頼み込む私をよそに、リヴァイはあっさりとそれを拒否した。
「え、ど、どうして」
予想外の返答に顔を上げると、彼はさっきと同じように淡々と言った。
「俺は後悔していない」
何を言っているんだろう。混乱する頭をどうにか落ち着かせようとしながら、私は彼に問うた。
「どういうつもりか知らないけど、リヴァイも昨日はどうかしてたんだと思う。お酒のせいで正常な判断ができなくなってて、それで、」
「俺はいつだってまともだ。ザルなの知ってるだろうが」
「そ、それはそうなんだけど」
彼の言葉を否定することはできなかった。リヴァイは本当に酒に強い。いつも何杯飲んでも顔色を変えないし酔ったところを一度も見たことがない。リヴァイが冷静なのはわかっているけれど、それでもやっぱり信じられない。
「じゃあどうして私なんかと寝たのよ。その辺に捨て置けばよかったのに」
半ば自棄になって言う。両手で顔を覆いそのまま俯いた。自分でも情けないと思うけれど、今は頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。ふう、とため息をついたリヴァイがベッドに腰掛けた気配がする。衣擦れの音が耳に届き、同時に顔を覆う手に触れられてびくりと肩が跳ねる。そっと手を剥がされて、目が合った。目の前にあるリヴァイの表情には相変わらず変化がない。それでも私を見る眼差しがどこか熱っぽいものに変わっているような気がして、息を飲む。
「好きな女に求められたら手出すだろ」
ぼそりと呟かれた言葉の意味を理解するまでに、時間がかかった。今、なんて言った?
「え?」
「え、じゃねえよ。人の気も知らねえで」
私の混乱なんてお構い無しにリヴァイは呆れたように言うと私の頬を両手でつまみ左右に引っ張った。
痛い。地味に痛い。
「いひゃい」
「アホ面」
リヴァイの手が離れ、じんと痺れる頬を押さえながら、信じられないという気持ちでリヴァイを見つめていた。同期の中では一番よく話すし、気兼ねなくなんでも言い合える存在ではあるけど。でもそれはあくまでも大事な仲間としての話で。少なくとも私はそう思っていた。なのに。
「リヴァイ、私のこと好きなの?」
「ああ」
「そういう意味で?」
「そう言ってんだろうが」
もう一度ため息をついた。呆れられているのかもしれない。だけどそんなことを気にしている余裕はなかった。まさかリヴァイから告白されるなんて。そんな可能性を考えもしなかった私は、ひたすら動揺していた。
「そんな、なんで。いつから?」
「自覚したのは二年くらい前だが、多分もっと前からだ」
「にっ……!?」
組んだ足に肘を乗せ、頬杖をつきながらリヴァイがじいっと私を見つめている。微かに笑みを浮かべているのは、私が困惑している様子を楽しんでいるのだろうか。
「そんな素振り全然なかったじゃない」
「当たり前だ。お前、最近まで男いただろうが」
「……」
「それに、俺のことそういう目で見てなかっただろ」
リヴァイのことは好きだ。人として尊敬できるし一緒にいて楽しいし、とても頼りになる。でもそれは友人としての好意で恋とは違うもの。リヴァイだって、そう思ってくれてると思っていた。だから私たちは良き同僚でいられたのだ。これから先もずっと変わらない関係が続くのだと信じていた。
「柄にもなく浮かれてたんだよ」
ぽつりとリヴァイが話し始める。昨日のことを思い出してるのか、視線がちらちらと宙を彷徨っていた。
「お前となら間違いが起こってもいいと思った。酒のせいで前後不覚になってようが関係ねえ。このチャンスを逃したくなかった」
淡々とした口調でリヴァイは語る。自分の思いを吐露することにあまり慣れていないのか、少しぎこちなさを感じた。
いつものリヴァイらしくない。冷静沈着で口数が少なくて、いつも一歩引いている。それが私から見た彼だったはず。それなのに、今の彼はどうだろう。私への想いを隠そうともせずストレートに伝えてくるその姿を、私は知らない。リヴァイのことを理解できているつもりになっていただけで、本当は何もわかっていなかったのかもしれない。
顔が熱い。きっと真っ赤になっているはず。こんなことになるなんて予想していなかったから、心の準備なんてできていなかった。心臓はバクバクと激しく音を立てていて、どうしたらいいかわからなくなる。深呼吸して心を落ち着かせようと試みるも、なかなか上手くいかない。
「で、どうする」
リヴァイの声に、俯いていた顔をぱっと上げる。
「どうするって……」
「俺は本気だ。お前と付き合いたいと思ってる」
じっと私の顔を見ながら彼が告げる。その真剣な眼差しにたじろいでしまう。今まで意識したことのなかったリヴァイとの関係。それを急に突きつけられて、戸惑うなという方が無理な話だ。
答えを待つように見つめらる。だけど、いくら考えても、私の口から出る言葉は一つしかなかった。
「無理」
「あ?」
「付き合えない」
もう一度、はっきりと告げる。リヴァイの目が僅かに細められた。
「何でだ」
「私から誘っておいてこんなこと言うのは最低だけど、リヴァイとは友達でいたい」
自分でも酷い言い分だと思う。都合のいいことを言っていることも十分承知している。好きか嫌いかで答えるのならばもちろん好きだけれど、その先が問題なのだ。今まで築いてきた関係を壊したくないという気持ちの方が強い。恋人になると『別れ』がある。それを思うとどうしても一歩踏み出すことができなかった。そんな変化は望んでいない。このままが、いい。
私の言葉を聞いたリヴァイはしばらくの間黙っていた。やがてリヴァイは短く息を吐き出すと、ベッドの上に仰向けに倒れこむ。やっぱり怒ってるだろうか。呆れているんだろうか。恐る恐るリヴァイの様子を窺うと、彼は目を閉じていた。怒っているというよりは、何事かを考え込んでいるように見える。
「まあ、そう言うと思ったぜ」
しばらくして、ため息混じりにリヴァイは言った。そしてゆっくりと身体を起こす。
「しょうがねえな」
やれやれといった様子でそう言うと、頭を掻いた。リヴァイの様子がいつもの雰囲気に戻っていることに少しだけほっとしたものの、胸の中にはもやもやとしたものが渦巻いている。申し訳ないと思うと同時に、これで良かったんだと自分に言い聞かせた。それが最善の選択なのだ。なのに、どこか寂しいと感じてしまうのは我ながら身勝手だとは思うけれど。
「本当にごめん、昨日のことは忘れ」
「だがな」
言葉を遮るリヴァイに視線を向ける。彼は私を見ていた。その目には強い意志が込められていて、射抜くような鋭さがあった。
リヴァイの纏う空気が一瞬にして変わった。ぞくりと背筋が震え、本能的に危険を感じる。咄嵯にベッドから逃げ出そうと腰を浮かせたが、それよりも早く腕が伸びてきて掴まれた。リヴァイが私の名前を呼ぶ。たったそれだけのことなのに、まるで金縛りにあったかのように動けなくなった。
「あっ!」
背中にマットレスが触れる感触がして自分が押し倒されたことを理解する。視界には天井とリヴァイしか映っていない。
ぎしり。
リヴァイが体重をかけると二人分の重みにベッドが軋む。顔のすぐ横に手を置かれて、もう片方の手は私の手首を押さえつけている。私の上に覆い被さるリヴァイの姿は獲物を前にした肉食獣のようで、喉元に牙を突き立てられているような錯覚に陥った。
「リ、リヴァイ?」
「この状況でもう友達もクソもあるか」
リヴァイの声色は静かだった。ただ私を見下ろすその瞳だけが熱を孕んでいる。
「お前は何もわかっちゃいない」
「っ!」
ぐっと顔が近づいてきて反射的に顔を背けた。それを咎めるように首元に手が当てられ顎をつかまれる。そしてそのまま唇を押し付けられた。キスされていると気づいた瞬間、全身の血が沸騰するように熱くなった。抵抗しようともがくものの押さえつけられて動けない。触れ合うだけのキスを何度か繰り返したあと、下唇を食まれた。柔らかさを堪能するみたいに角度を変えて吸われる。
「んっ……」
頭がくらくらする。必死に理性を保とうとするけど、与えられる刺激が思考を奪っていく。
どうしよう。どうしたらいい? どうするのが正解なの。
唇が離れていき至近距離で目が合う。呆然としている私を見てにやりと笑う。普段のリヴァイからは想像できない、意地の悪い笑みだった。
まずい。非常にまずい。頭の中で警鐘が鳴る。
「待って」
「ずっとこうしたかった」
「待ってってば」
「お前が他の男の話する度に嫉妬で狂いそうになった」
「リヴァイ……っ」
「俺を見ろ」
耳元で囁かれてぞわりと肌が粟立つ。
「好きだ」
低く掠れた声は私の脳を揺さぶった。熱い吐息と共に注ぎ込まれた告白は麻薬のように私を支配する。リヴァイが私を求めている。その事実が、じわじわと心を侵食していく。
こんなのずるい。反則だ。
そう思うのに、心臓は馬鹿みたいにドキドキしている。悔しくて睨みつけようと見上げた先に熱を帯びた深いグレーの瞳とぶつかる。
柔らかく細められた目、ゆるく弧を描く薄い唇。初めて見る表情だ。
こんな顔、知らない。こんな優しい笑顔、見たことがない。愛おしいと言わんばかりの眼差しに目を奪われる。
私は今、どんな顔をしているんだろう。
「なあ」
彼の低い声は、甘く蕩ける毒のようだった。リヴァイの親指がそっと頬を撫でた。指先は少しだけ冷たくて、触れられたところから溶けてしまいそうな感覚に陥る。
「絶対逃さねえからな」
ああ、だめだ。囚われてしまう。
見えない檻は扉を開けたままずっとそこにあった。誰にも気づかれず、ただひっそりと静かに獲物が来るのを待っていたのだ。
自ら飛び込んだ愚かな女は、もう引き返せない。
in una gabbiaー檻の中ー