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DOMANI CON TE  #1

 まだ夜が明けきらぬ薄闇のなか、リヴァイは目を覚ました。時間を確認すれば午前四時を少し過ぎたところ。いつもの起床時間より少し早いが寝直せるような時間ではない。椅子から立ち上がり軽く伸びをすると肩と背中がぱきりと音を立てた。カーテンの隙間から外を覗くと、空はまだ白み始めてもいないようで夜明け前の静けさが満ちていた。手早く着替えると静かに部屋を出た。厩舎では厩務員たちはすでに忙しく立ち働いていた。馬たちにブラシをかけ、飼い葉や水をあたえ糞を始末する。リヴァイは自分の馬を引いて外に出すとブラシをかけた。馬はおとなしく従い毛並みを整えられる。リヴァイはこの馬が気に入っていた。自分の性格をよく心得ていて、忠実で優しい。主の髪の色と同じ黒鹿毛。黒いたてがみ。黒い瞳。壁外を疾走するときも壁内で巡察するときも、いつでもリヴァイの傍らにあり、その身を守ってくれる愛馬だった。手入れを終えると、手綱を引き厩舎の裏手にまわった。空にはようやく淡い暁光が滲みはじめており、厩舎裏の草むらに影絵のような山稜が浮かび上がっていた。
「おはようございます」
 井戸端のそばに馬を止めて水を飲ませていると、背後から声をかけられた。そこにいたのは栗色の長い髪を三つ編みにした、小柄な女。調査兵団の団長であるエルヴィンの副官だった。団長に就任してから長らく副官を置いていなかったが、多忙を極めるエルヴィンの執務を補佐すべくこの春に任命された。元はミケ班に属し、ともに何度も壁外を駆けてきた兵士。加えて書類仕事もこなせる優秀な頭脳の持ち主でもあり、兵団幹部たちの間でも重宝されていた。背筋を伸ばし、凛とした雰囲気をまとって敬礼をする姿は生真面目そうだが、ひとたび微笑めば優しげに見える整った顔だちをしている。
「ああ」
 リヴァイが答えると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「こんなところで何をしている」
 井戸端での雑用は彼女の役割ではないはずだ。すると、肩をすくめて見せた。
「いつもより早く目が覚めてしまったので、散歩していました」
 そう言うと、彼女は視線を上げて空を見た。リヴァイもつられて顔を上げる。薄青い朝の空気のなかに陽射しの気配が忍び寄っていた。風が吹くたびに枝葉はさやめき、鳥の声が遠く響く。
「散歩?」
「はい。散歩です」
 少し首を傾げると三つ編みにした栗色の髪が揺れる。リヴァイは自然と彼女の左手に視線を落とす。その手には歩行を補助する杖が握られている。
 彼女は半年前に左脚に大きな傷を負い、もう走ることはできない。巨人に襲われたせいではなく、事故による怪我だ。神経に損傷を受け、膝から下の自由がきかなくなった。今後は車椅子が必要だろうと医者は言ったそうだが本人の意思もあり、訓練を重ねて少しずつ自力で歩けるようになっている。今では杖をついて歩く姿はもう見慣れたものになった。訓練を開始した頃に比べれば随分ましになっているようだがまだぎごちなさは残っている。
 しかし、兵士として前線に出ることは叶わなくなり、退団の申し出をした彼女に団長の副官という立場を与え、兵団に残るよう説得したのはエルヴィンだった。『たとえ巨人と戦えなくなっても、君は調査兵団に必要だ。力を貸してほしい』と彼は言ったという。彼女もそれを受け入れた。今は歩行訓練を続けながら副官の任にあたっている。団長の事務方の右腕となって執務を助け、同時に兵団の内外で起こった出来事を把握し、エルヴィンに伝えるのが主な役目。彼女が補佐につくようになってから、兵団の仕事はかなり円滑に回るようになっていた。もともと団長自身が仕事を溜めこむタイプではなかったが、彼女のおかげでさらに仕事がしやすい環境になったといえる。
 リヴァイはその左足をじっと見つめた。
「……調子はどうだ」
「悪くありませんよ」
「そうか」
「こればっかりは焦っても仕方がないですからね」
 大げさに嘆いて見せるわけでもない。あくまでも淡々とした口調で言う。それが彼女らしく思えて、かすかに目を細めた。ふと彼女の視線がリヴァイから逸らされて背後に向いている。つられるようにリヴァイも振り返ると、繋がれた馬が鼻面を寄せてきていた。
「兵長の馬ですよね」
「ああ」
「触ってもいいですか?」
 リヴァイがうなずくと、彼女は嬉しそうな顔をして馬に近寄った。一歩ずつ、ゆっくりと歩み寄る。彼女が体重をかけるたび、杖の先が地面を打つ音がする。手を伸ばすと、馬も彼女を歓迎するように鼻先を押しつける。
「とても綺麗。艶々していますね。さすが兵長の愛馬」
 リヴァイは馬に触れている彼女の横顔を見つめる。馬と戯れる彼女は、兵士でも副官でもなく、ごく普通の若い娘に見える。二人の関係は、はたから見れば上官と部下だった。だが、リヴァイにとって彼女は単なる部下と括れる存在ではない。思えば、彼女のことが気になりはじめたのはいつ頃からだったろう。心の片隅にあって、ふとした瞬間にその存在を主張するもの。痛みにも似た感覚。最初はただの錯覚だと自分に言い聞かせてきた。エルヴィンの副官になってからというもの、行動をともにする機会が増え、その度に彼女はリヴァイに笑顔を向け言葉をかわす。些細なやりとりが積み重なって、少しずつ心のなかを侵食していった。リヴァイは自分に向けられる好意には敏感だ。それをうまく受け流す方法も心得ている。これまでも何度か経験してきたことだ。だが、彼女がリヴァイに向ける眼差しに宿るものだけは無視できなかった。
「君は一緒に外へ行けるんだね」
 ぽつりとつぶやかれたその声が寂しげに聞こえたのは、気のせいだろうか。
 彼女はもう壁外調査へ行くことはできない。この足では立体機動装置を使うことはもちろん、馬に乗り駆けることもできない。壁の外には行けず、兵舎で仲間の帰りを待つしかないのだ。彼女はそのことをどう考えているのだろう。何を思い、何を望み、日々を過ごしているのか。その心の中を知る術はない。彼女の表情からはいつも笑顔しか読み取れないからだ。どんな気持ちを胸に秘め、過ごしているのか推し量ることは難しい。
「本当に、いい子ですね」
「ああ」
 手が離れると馬は名残惜しそうに鼻を鳴らしまた首を傾げた。リヴァイはもう一度彼女の足に目を向けると、ふと思いついたことを口にする。
「乗るか?」
「え?」
 彼女がぱちりと瞬きをする。
「ちょうどコイツを少し走らせようと思っていたところだ」
 まだ時間に余裕はある。散歩にはちょうど良いだろう。すると、彼女は困ったように微笑んだ。
「いえ、私は遠慮します」
「なぜだ」
「私の足では馬上でバランスが取れません。落馬してしまいます」
 そう言って左脚をさする。確かに馬上は不安定だ。重心が崩れるとそのまま転げ落ちてしまうかもしれない。だが、このまま何もせず別れるのは、やはり味気ない。
「一人で乗れとは言ってない」
 リヴァイは馬を繋いでいた杭を抜いて軽やかに馬の背にまたがった。そして、彼女に手を差し伸べる。
「え?」
「後ろでしがみつくくらいはできるだろ」
「兵長と二人乗り……ですか?」
 彼女が目を丸くする。そして、リヴァイの手と彼の顔に交互に視線を向けた。どうやら躊躇っているらしい。戸惑ってる表情と、その頬がうっすらと赤くなっていることにリヴァイは気づく。
「無理にとは言わねえが」
「い、いえ! ぜひお願いします!」
 慌てたように言う姿に、リヴァイは口の端をわずかに持ち上げた。杖を木立に置くと、おそるおそるリヴァイの手に自分のそれを重ねた。ぐっと掴んで引き上げれば左脚を引きずるようにしてリヴァイの後ろに腰を下ろした。
「わっ」
 不安定な体勢だった彼女が前のめりになってリヴァイの肩にしがみついてくる。
「す、すみません」
「落ちねえようつかまっていろ」
 そう促すと、彼女は腹の前に腕を回す。そして背中に身体を預けてきた。身体が密着すると彼女が女性であるということを強く意識させられる。栗色の髪から漂う甘い香りも服越しに伝わる体温も、リヴァイの胸を甘く疼かせた。
「行くぞ」
 それだけ告げると、リヴァイは馬の脇腹を軽く蹴った。
 
 ***
 
 朝日が昇りはじめた森の中を駆けていく。まだ夜の名残を残した空気は澄んでいて心地よい。蹄が土を噛む音が響き、木々の梢がざわめいた。時折、鳥がさえずっては二人を追い越していく。
 リヴァイは馬を走らせながらも彼女の様子を確認する。最初はぎこちなくリヴァイにしがみついていたが、しばらくすると緊張も解けたのか今では安定した姿勢で馬に揺られている。
「気持ちいいですね」
 ふと、彼女のつぶやく声が聞こえた。
「風を感じて、草や木の匂いがして、鳥の声を聞いて、とても穏やかな気持ちになります」
「……そうか」
 リヴァイは短く答えた。言葉少なに相槌を打つと、彼女が続けた。
「馬に乗って景色を楽しむなんて、いつぶりだろ」
 訓練に明け暮れていた日々。馬で駆け、壁外に出て巨人の群れと死闘を繰り広げた。いつ死ぬかもしれないという恐怖と戦いながらひたすら前進し、壁内に戻ってきてからもその余韻に苦しめられる。そしてまた前を向く。その繰り返しだった。だが、彼女はもう兵士として壁外で戦い、その命を散らすこともないだろう。リヴァイはそっと手綱を握る手に力を込める。やがて森が開けて視界いっぱいに草原が広がった。
「わあ……」
 感嘆のため息が聞こえる。速度を落とし、ゆっくりと歩かせる。
 まだ明けきらない薄明の空の下に広がる草原。ゆるやかな起伏を見せる丘は緑に覆われ、ところどころに浮かぶ雲の影がまるで錦糸のように光っていた。狭い壁の内側でも美しい自然がある。壁の外はもっと広く、果てしない世界が広がっているのだろうか。
「綺麗……」
 うっとりとした声で彼女が言う。首を巡らせて背後を振り返ると、ちょうど彼女の横顔が見えた。大きな瞳が感動に見開かれ、その視線は遠くの風景に向けられている。そして唇が柔らかく微笑んでいた。その無防備な表情を見ていると、胸の奥からこみ上げてくるものがある。愛しさとか切なさとか、そんな名前がつく感情だと理解しているが上手く言い表せない。
「兵長?」
 ふと、彼女がこちらを振り向いた。どうしたんですか? と言いたげに彼女は小首を傾げる。
「いや。……降りてみるか」
 リヴァイは手綱を引いて馬を止めた。背中から温もりが身体が離れて、名残惜しさを感じる。先にリヴァイが地面に降りると、彼女に手を貸す。
「ありがとうございます」
 素直に礼を言うと、左足を庇いながら慎重に馬から降りるが、着地と同時によろけてしまう。リヴァイはその身体を素早く抱きとめた。二人の視線が至近距離で絡み合う。互いの吐息を感じるほどの距離。一瞬の間があって、彼女が身体を引いた。
「すみません。ありがとうございます」
「いや」
 腕の力を緩めて離れると、背を向けて乱れた髪を撫でつけた。栗色の長い髪からのぞく耳の縁が赤く染まっていることに気づく。こういう反応をされると、こちらも気恥ずかしくなる。何とも言えない沈黙が流れる中、今更ながら二人きりという事実を意識してしまったのだ。
 リヴァイが近くの木に馬を繋いでいる間、彼女はその場に座り込んで生えている草に触れていた。小さな花を見つけると指先で優しく撫でる。隣に腰を下ろすと、はにかみを含んだ笑みを浮かべる。
「誰もいないですね」
「そうだな」
 早朝ということもあり周囲には人の姿はない。二人はただ黙って草原を眺めた。時おり彼女の髪が風に揺れ、長いまつ毛が伏せられる。
「寒くないか」
 リヴァイが訊ねると、彼女はふるりと首を振る。
「これくらい平気ですよ。兵長は私のことか弱い女だと思ってますか?」
「あ?」
「前線は離れましたが、鍛錬は欠かさずやってます。そんなにヤワじゃないですよ」
 クスクス笑いながら言われ、リヴァイは眉をひそめる。確かに、彼女は小柄で華奢ではあるが戦場での戦いぶりを思えば見た目通りの女ではない。わかってはいるが……。
 リヴァイは口を開きかけて閉じた。
 その時、一羽の白い鳥が空を滑るように飛んでいくのが目に入った。彼女はそれを追いかけるように顔を上げる。鳥は弧を描き、リヴァイたちよりもずっと高いところを旋回している。
「そういえば私、子供の頃はよく鳥を追いかけてたんです」
 空を見つめたまま彼女がつぶやく。
「木の上にいる鳥を一生懸命に見ていたら、両親が高いところが好きなんだろうって勘違いして、庭の木に登らせてくれたんですよね。でも結局、私が降りられなくて大泣きしてしまって、両親は慌てふためいていましたけど」
 そう言って懐かしそうに語る彼女に、リヴァイは目を細める。
「鳥を見ているとなんだか羨ましくて。いつか自分も飛んでみたい、なんて思っていたのを思い出します」
 彼女の目が遠くを見つめた。そこには壁に囲まれた狭い世界ではない、無限に広がる世界があった。自由に飛び回る鳥の姿を彼女はどんな思いで見上げていたのか。
「だから立体機動を使って飛ぶ訓練を始めた時、嬉しかったなぁ。自分だけの翼を手に入れた気がしました」
 そして空に向かって手を伸ばした。何かを掴むように握りしめてから開く。だがそこには何もない。表情がわずかに陰り苦味を帯びた微笑に変わる。
 憧憬の眼差し。その目には今、この景色が映っているだろうか。翳した手に触れる柔らかな感触。リヴァイの手が伸びてきて重ねていた。一瞬、彼女の手は驚いたように身をすくめたが、振り払うことなくそのぬくもりを受け入れた。
 しばらくの間、互いに言葉を交わさずに過ごした。やがて彼女の視線がリヴァイに向けられる。その瞳には熱がこもっていた。
 ――ああ、やっぱり綺麗な色をしている。
 長いまつ毛に覆われた大きな瞳、形のいい鼻、柔らかそうな唇。触れたいと本能的に思った。衝動のままに重ねられた手を強く握ると、彼女もそれに応えるようにきゅっと力を込める。
 リヴァイはそっと身体を傾け、己の唇を彼女のそれに近づけた。

 
 柔らかな風が吹き、頬に触れる髪がくすぐったかった。まるで二人を取り巻く世界は穏やかで温かいものだと感じさせるように、その朝は訪れようとしていた。

  

   

  

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