indigo elegie

花飛の舞

 ベランダへと続く窓を開けば、柔らかな春風が部屋の奥へと流れ込んでくる。見上げた空には雲ひとつなく、透明感のある青が果てしなく広がっていた。その鮮やかな蒼穹があまりにも美しく、思わず瞼を細めてしまう。三月も半ばを過ぎたというのに、この陽気は軽やか過ぎて汗ばんでしまうほどで、まるで初夏の陽射しのように感じられた。


 ふわりと漂ってくる草木の香りに混じって、どこからともなく花の甘い匂いが運ばれてくる。桜だろうか。こんなにも心地よい日には、どこか遠くへ足を向けたくなるものだが——。


 振り返れば、殺風景な部屋の中に段ボール箱が無造作に点在している。昨日、私は大学進学のため家族と離れ、この小さなアパートで一人暮らしを始めたのだった。


 引っ越してきたばかりの部屋は、まだ生活の温もりというものを感じさせない。段ボールを開けていないせいもあるだろうが、なんとなく心が落ち着かないのは、一人でいることの不安からだろうか。今日中には片付けを済ませてしまいたいのに、これほど天気が良いと一日中部屋に籠もっているのは何とも気が進まない。


 部屋着のまま素足でベランダに出て、両腕を大きく空に向かって伸ばした。そのまま手すりにもたれかかり、眼下に広がる景色を眺める。同じ三門市内とはいえ、実家から見える風景とはまるで違っていて、すべてが新鮮に映った。春休みに入ってからというもの、引っ越しの準備に追われてばかりで、こうして静かに外を眺める余裕などなかった。


 遠くには淡い緑に覆われた山々が連なり、少し向こうの河川敷では満開の桜が薄紅色の雲のように浮かんでいる。ひらひらと風に舞い散る花びらが、まるで雪のように空を漂っていた。一枚の絵画に見入るように、しばらくこの静寂な時間に身を委ねてみる。春の温かな光が、これから始まる新しい生活を祝福してくれているかのようで、胸の奥が自然と高鳴った。

 ***

 一通り段ボール箱を片付け終えて一息つくと、時計の針は既に午後二時を回っていた。作業に夢中になっているうちに、すっかり時間が過ぎてしまったようだ。そろそろ昼食を摂ろうとキッチンへ向かい、昨日設置したばかりの真新しい冷蔵庫の扉を開けてみる。


 中に入っていたのは、お茶のペットボトルが二本と、調味料の小瓶が三つだけ。昼食にできそうなものは何ひとつない。昨日はコンビニ弁当で済ませてしまい、食料品を買い揃える余裕もなかったのだから、当然といえば当然だった。パタンと冷蔵庫の扉を閉じて、軽く背伸びをする。確か、この近所にスーパーマーケットがあったはずだ。


 着替えを済ませて玄関のドアを開けると、思いの外強い陽射しが目を刺した。気温も随分と上昇していて、春らしい陽気に思わず頬が緩む。最近ではすっかり定番となったエコバッグをひとつ鞄に忍ばせて、川沿いの道をのんびりと歩いた。さらさらと生温かい風が髪と頬を優しく撫でていく。歩いているうちに、新しい街での生活への期待が胸の内に膨らんできた。


 十分ほど歩くと、生活感の漂う赤いロゴの看板が見えてきた。歩いて火照った身体に、冷房の効いた店内は実に心地よく、すっと汗が引いていく。買い物カゴを手にして、さっそく売り場を見て回る。まずは昼食の調達からだ。


 惣菜コーナーには、ハンバーグ、コロッケ、オムライス、スパゲッティと、定番メニューがずらりと並んでいる。和食から中華まで、どれもお手頃な価格で、見た目の美味しさは甲乙つけ難い。うーん、どれにしようかと悩みながら、ふと顔を上げたその時——。


 惣菜コーナーの端に立っている見覚えのある後ろ姿に、心臓がひとつ跳ねた。向こうも私に気づいたらしく、振り返ると「あっ」という表情を浮かべている。


「荒船だ」


 そこにいたのは、高校一年と二年で同じクラスだった荒船哲次だった。席替えで隣になったことがきっかけで話すようになり、意外にも趣味がよく合って、映画の話題でよく盛り上がったものだ。男友達の中でも特に親しい方だったと思う。三年生では別のクラスになって話すことは減ったが、それでも校内で見かけるたびに互いに声をかけ合うような間柄だった。


 まさかこんなところで会うとは。思わず手を止めてしまう。荒船は軽やかな足取りで私の隣にやって来て、手にしたカゴの中を覗き込んで言った。


「お前も飯買いに来たのか?」
「うん。昨日は引っ越しでバタバタしてたから、全然食材とか買ってなくてさー」


 おどけるように言うと、荒船は目を丸くした。


「引っ越しって、もしかしてこの近くにか?」
「うん。ここから十五分くらいのところ。まあ、まだダンボールだらけだけどね」


 小さく苦笑いして答えると、荒船はさらに驚いたような表情を見せた。


「一人暮らしするかもっていう話は聞いてたが……本当に引っ越したんだな」
「うん。実家から通うには不便だからね。一人暮らしにも憧れがあったし」


 すると、少しだけ間を置いて、荒船がさらりと言った。


「……なら俺の家からも近いな」
「本当?」


 知らなかった。まさかそんな近くに住んでいるなんて。驚いたのは私の方だった。


「じゃあ、今度遊びに来てよ」


 荒船の瞳が一瞬だけ揺れ動いたように見えた。それから口元に小さな笑みが浮かぶ。


「いいのか?」
「もちろん!せっかく近くに住んでるなら、一緒に遊ぼうよ」


 私が無邪気に笑ってみせると、荒船は少しだけ「あー」と目を泳がせて言い淀んだ。気のせいだろうか、なんとなく照れているようにも見える。


「どうしたの?」
「いや、なんでもない」


 ふっと話題を切り替えてくる。


「昼飯はもう決めたのか?」
「まだ。でも弁当を買うつもりだよ」


 そうだった、お弁当を買いに来たのだ。私は再びずらりと並んだランチの候補に目を向け、あれこれと眺めた。どれも美味しそうで迷ってしまうが、やがてその中のひとつに手を伸ばす。デミグラスソースがたっぷりとかかったボリューム満点の一品、ハンバーグ弁当だ。


「よし、これにする!」
「決まったのか」
「うん。荒船は?」
「俺は……これだな」


 彼が手にしたのは唐揚げ弁当だった。思いもかけない相手と一緒に昼食を調達してから、なんとなく並んでレジへと向かった。会計を済ませた後、ふと荒船は足を止めて私を見た。


「なあ。これから時間あるか?」
「え?あるけど……」


 思わず小さく答えると、何やら愉快そうに口の端を上げる。


「なら、一緒に食おうぜ」
「いいけど、どこで?」


 このスーパーにイートインコーナーはない。どこか外で食べるつもりなのだろうか。荒船は楽しそうに言った。


「今の時期といえば、あそこしかないだろ」

 ***

 スーパーを出て荒船の後についていくと、辿り着いたのは近くを流れる大きな川だった。土手を降りて桜並木の遊歩道を歩く。満開の桜が風に吹かれて、ハラハラと花びらを散らしていた。今は春休み真っ只中。春の陽気に包まれた河川敷には、そこかしこにカラフルなレジャーシートが広げられ、花見を楽しむ家族連れやカップルの姿が途切れることなく続いていた。


 その賑やかな様子を眺めながら、私たちが腰を下ろしたのは、川沿いから少し距離のある小さなベンチだった。座った途端にお腹が鳴り、慌てて手で押さえると、荒船がくすっと笑う。


「腹減ったよな。俺ももう限界だ」


 そう言って袋から取り出されたのは、さっき引っ越し祝いだと言って一緒に買ってくれた私のハンバーグ弁当。


「はい」
「ありがとう」


 早速蓋を開けてみる。じっくりと煮詰められたソースが肉汁と絡み合う濃厚な香りに、またお腹が鳴りそうになる。


「よし、まずは乾杯だな」
「いいね。何に乾杯する?」
「桜とお前の引っ越し記念でいいんじゃないか」
「ふっ、それいいかも」


 コツン。お互いの缶ジュースを軽く打ち合わせて、二人同時に一口飲んでみる。するすると、冷たく甘い液体が喉を滑り落ちていく。


「うまいな」
「うん。おいしい」


 私たちは顔を見合わせて笑った。


「さて、じゃあさっそくいただきますか」


 パキッと割った割り箸で唐揚げをひとつつまみ、口に放り込む。荒船はすぐにとろけ顔になった。


「うん。やっぱりここの唐揚げは美味いな」


 よし、私も。一口大に切られたハンバーグをパクりと口へ運ぶ。ジュワッと広がる肉汁に、思わず頬が緩んだ。


「うま!」
「そりゃ良かった」


 ここのスーパーは今後も大活躍してくれそうだ、なんて思いながら、私と荒船はお互いの弁当の中身にコメントやツッコミを入れつつ、笑い合って食事を楽しんだ。久しぶりに話す荒船は、高校時代と変わらず面白くて、気がつくとすっかり緊張もほぐれていた。


 あっという間に完食だ。お弁当を食べ終えると、しばらくぼんやりと川の流れを見つめた。時折吹く風が、まだ散り残った花びらをさらっていく。ひらひらと膝に舞い落ちてくる柔らかな欠片。大きな桜の木には明るい斜陽が差し込み、千にも万にも分かれた薄紅色の花弁がその光を浴びてキラキラと輝いていた。


 ただ、見惚れた。


 ふと隣を見ると、荒船も同じように桜を見上げていた。彼の瞳もまた、桜の輝きを受けてきらめいていた。横顔に射す夕陽が、彼の輪郭を柔らかく縁取っている。


「……きれい」


 ぽつりと呟けば、荒船がこちらを向く。


「どうした?」
「ううん。なんでもない」


 慌てて首を振ったけれど——。


 あれ。荒船ってこんなにカッコよかったかな。いや、顔が良いのは知ってたけど、なんか雰囲気が違うというか……自分でもよくわからない。ただ、胸の奥にざわつくような感覚があった。今まで男友達として何も感じたことなかったのに、どうしてだろう。久しぶりに会ったからかな。でも、それだけじゃない気がする。今にも何か強い感情がこの胸に押し寄せてきそうで、私はぶんぶんと頭を振った。


「どうかしたのか?」
「え?な、なんで?」
「なんか変な動きしてるぞ」


 不思議そうに目を丸めた荒船に、私は話題を逸らそうと口を開く。


「あー、まさか今日こうして荒船とお花見できるとは思わなかったなって」


 荒船は目を細めて微笑む。


「そうだな。苗字とゆっくり話すのも久しぶりだよな」
「三年はクラス違ったし、受験勉強で忙しかったもんね」


 卒業して春休みに入ってすぐ、荒船はアルバイトで一週間以上連絡が取れないと言っていたし、私も引っ越しの準備に追われていて余裕がなかった。


苗字とは大学に入るまで会えねえかなと思っていたから……まあ、ちょうどよかった」


 なぜだろう。少しうつむきがちに、ぽつりと言った。言葉の裏にまだ何か言いたいことが潜んでいるような、一瞬そんな気配を感じ、胸がわずかに跳ねた。頬の熱さを感じながら、私はわざと軽く返してみる。


「何よ。もしかして寂しかった?」
「……」


 少し言葉が途切れた後、


「そうかもな」


 さらっと肯定されてしまい、言葉に詰まる。いつもみたいに「んなわけあるかよ」って言われると思ったのに。荒船の顔を横目で窺えば、目が合ってしまった。いつもと違って真剣な表情に、心臓が早鐘を打つ。


「はは、なに言ってんの」


 今の鼓動を悟られないよう、思い切り口角を上げてみる。けれど荒船はじっと私を見つめていた。その視線に絡め取られて動けなくなった時、不意に強い風が吹いた。ざあっと桜吹雪が舞い上がる。一瞬視界が遮られたが、風はすぐに止み、辺りは再び穏やかな空気に包まれた。


「風強かったね」


 乱れた髪を手で押さえていると、荒船が身体を寄せて私の髪に触れる。目を見開けば、荒船がそっと手を離した。そして「ほら」と言って開かれた手のひらに、薄い花びらが一枚乗っていた。


「ついてた」


 数センチまで近づいて微笑みかけられたその笑顔に、また心臓がどきりと跳ねた。こんなに近くで荒船の顔を見るのは初めてかもしれない。睫毛が長くて、瞳の色が思っていたより深い茶色で——。


 なにこれ。顔が熱い。いやいや、相手は荒船だ。イケメンなのは認めるし、いい奴だけど友達だ。だからドキドキするのはおかしい。そうだ、きっと妙に意識してしまうのも、この満開の桜に心が浮かれているからだ。そうに違いない。


 自分に言い聞かせながら、まだ言葉を失っている私に荒船はクスリと笑う。その表情はいつもと違って柔らかくて優しくて——まるで愛しいものを見ているかのような……。


 そこまで考えて、ハッとした。


 だめだ、この雰囲気に呑まれちゃいけない。なんとか心を落ち着けないと。


 深呼吸して自分を奮い立たせる。


「どうした?顔が赤いぞ」
「なんでもない」
「ふぅん」


 少し笑みを含んだ口元でじっと私を見つめた後、手に持っていた缶ジュースをぐいっと飲み干した。空になった缶をベンチに置くと、肩を寄せて私の耳に顔を近づける。耳元に温かい吐息を感じてビクッと身体を震わせると、荒船は小さく囁いた。

「────」

 甘い声で紡がれたその言葉を頭の中で反芻する。今の声の響きは、いつもの荒船とは全然違っていた。まるで何かを堪えているような、切ないような——。


 私がその意味に気づく前に、再び桜の花が吹き荒れた。反射的にぎゅっと目を瞑り身構えるが、風に運ばれてきたのは花弁ではなかった。温かい感触が唇を掠める。それは一瞬のことで、風が通り過ぎる頃には離れていた。
 瞼を上げると熱を帯びた瞳と視線が重なる。


 その瞳の奥では、まだ桜が舞っていた。

  

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