indigo elegie

気づくのがおせーんだよ

 

 いたずらな雨に煙る街の喧噪は、密集した雑居ビルの向こうで静かに溶けていく。
 低く垂れ込めた鉛色の空が街全体に重く沈んだ夜の気配をもたらしていた。道路を行き交う車のヘッドライトが濡れた舗道に反射し、淡く揺らめく光の筋を描いている。

 冬の冷たい雨が、肌にじんわりと響く。普段から賑やかな駅前は、夜になっても人波が絶えず、人々のざわめきで溢れていた。


──今日は、雨の予報ではなかったはずだけど。


 不意に降り出した雨が、胸に積もった感情をそっと撫でるように静かに街を濡らしていく。その雨は冷たく、時おり雪へと変わりそうな気配を漂わせていた。


 折り畳み傘をゆっくりと開き、冷たい雨粒が布に当たる心地よい音に耳を傾ける。


 立て込んでいたジーニアス事務所での仕事がようやく片付き、外へ出る頃にはすっかり夜が更けていた。ヒーロー事務所は毎日稼働しており、シフト制で事務員も勤務しているため日曜日でも休みがあるわけではない。

 湿った夜風が静けさを強調し、水たまりは街灯の光を映して淡く輝いていた。その上をそっと踏みしめると、波紋が静かに広がりやがて消えていく。小さな揺らぎがまるで一年の出来事を反芻するように心に沁みる。


 思い返せば、今年はまるで波立たぬ湖面のような日々だった。感情が大きく揺れることもなく、淡々と積み重ねた時間はこの雨のように静かで冷たい。


 遠くへ行ってしまったものの影が心の隅で微かに揺らめいた。


 それはもう手を伸ばしても届かない場所にいる。けれど、不意に訪れる静寂の隙間にまだその気配だけは残っていた。

 最寄駅から自宅への道を歩きながら耳に届いたのは居酒屋からこぼれる笑い声と熱気を孕んだ喧騒。冷たい空気に浮かぶその音はどこか遠い世界のもののように感じられる。


「なぁもう一軒行こうぜ」
「行かねえ。帰る」


 ふとした拍子に耳をかすめた声に足が止まった。声のする方へ視線を向けると居酒屋の軒先に人影が見えた。


 雨のカーテン越しに見え隠れする金髪は間違いようがない。そばには彼の肩に無造作に手を置き豪快に笑う赤毛の男性が隣に立っている。彼らの周囲では数人の男性たちが楽しげに談笑し店先には楽しげな輪ができていた。


 その中心にいるのは仏頂面の爆豪勝己。僅かに肩を揺らしながら隣の男性と何か言い合っているようだった。


 爆豪くんと、あれは切島くんと上鳴くん?


 雄英時代の爆豪くんの同期だ。切島くんたちが笑いながら爆豪くんの肩に手を回し店に引き入れようとしている。大人になり交友関係は広がっても、彼らとの絆は今も変わらない。


 立ち止まったまま私はただその光景を見つめていた。


 今年、爆豪くんはジーニアス事務所を離れ、自身の事務所を立ち上げた。数年間共に働いた間柄で、私は彼とそれなりに親しくしていたつもりだ。仕事ぶりに信頼を寄せていたし、良い同僚だったと感じている。もっとも、それは私の一方的な印象かもしれないが。


 ほぼ毎日のように事務所で顔を合わせていた彼がいなくなり、以降は仕事で接する機会も減ってしまい近況を知ることも難しくなった。


 その時、初めて自分の心に気づいた。


――私は爆豪くんのことが好きだったんだ。


 けれども気づいた頃には、彼はもう手の届かない場所に行ってしまっていた。


「爆豪くん……」


 画面越しじゃない、久しぶりに見たその姿に無意識に名前を呼んでいた。この雨の中なら私の呟きなど誰も気にも留めないだろう。


 怪我も病気もなく元気そうな様子に安堵感とほんの少しの寂しさが滲み、それ以上に自分は彼を遠くから見ていることしかできないという切なさに胸が締め付けられた。


「うぜえ! 離れろ!」


 爆豪くんの声が荒々しく夜の雨に溶け込んだ。吐き出されるその言葉には鋭い棘が含まれているが、切島くんや上鳴くんは慣れた様子で気にも留めず笑い声を重ねる。


「そう言わずに雨止むまで飲もうぜ」
「いっつも同じ店ばっかじゃん? たまには俺おススメのとこ行こうぜ」
「行かねえっつてンだろ」


 えー!と不満げな声が響く。よほど爆豪くんと過ごす時間が惜しいのか、切島くんたちはなかなか引き下がろうとしない。親しそうな様子が彼らの間に積み重ねられた年月を静かに物語っていた。


 横断歩道に向かう人波が私の足元を通り過ぎていく。居酒屋の軒先の明かりが瞬きするたび雨に霞んで、彼らの楽しそうな声がどこか遠く聞こえる。


 思い出の中に埋もれていく爆豪くんの姿を捉えようとすればするほど、記憶の中の輪郭は曖昧に滲んでゆく。


 信号が青に変わり、横断歩道を足早に人々が渡り始める。足が地面に縫い付けられたようにその場から動けなかった。


 爆豪くんが見えなくなるまで見送りたい、そんな気持ちからだった。未練たらしく感じられて自分が嫌になる。


 車が行き交う交差点で遠くからクラクションの音が響き、一瞬だけ意識がそちらに引き寄せられる。信号が赤に変わり、再び目線を戻したその瞬間、赤い瞳が真っ直ぐ私を捉えていた。


 互いの視線が静かに交差する。爆豪くんは瞳を見開いたまま動きを止める。まるで時が留まったかのように。


 あ、と思った瞬間ーー


「放せお前ら」


 爆豪くんは切島くんたちの手を振り払うと、雨に濡れたアスファルトを駆け出した。


 迷いのない足取りでこちらへ向かってくる姿に、思わず後ずさった。


 えっ、うそ。こっちに来る!?


「おい、爆豪!」
「ついて来んな!」


 夜の帳が垂れ込める交差点の向こう、ぼんやりとした街灯の下で彼の姿が次第に輪郭を帯びてきて、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


 咄嗟に傘を傾け、隠れるように歩道の端へと身を寄せた。湿った空気が肌に触れ、心臓が早鐘を打ち始める。


 足音が次第に近づいてきて、大きいスニーカーが見えたかと思うと次の瞬間、爆豪くんが傘の下へと飛び込んできた。


 濡れた金髪から滴る雨粒が頬をかすめて落ちていく。その一滴が肌に触れた刹那、時間が静かにほどけるように流れ出し、降り続ける雨音が耳の奥を満たしていった。


「はっ!?」


 なになになに……!?


 傘の持ち手を掴んだまま身を強張らせた。雨粒がまたひとつ、頬を冷たく滑り落ちる。


 驚きと戸惑いで心が波立つなか、爆豪くんの舌打ちが雨音に紛れて響いた。


「行くぞ」
「えっちょっと」
「いいからついて来い」


 有無を言わさず歩き出す。その勢いに押されるように慌てて足を動かした。


 反対の通りに目を向けると、切島くんたちが大きく手を振りながら何かを叫んでいるのが見えた。


「おい爆豪ー!その子誰だー!」
「聞いてねえぞ!」


 爆豪くんはそれを無視して前へと進んでいく。


「ね、ねえ、呼ばれてるよ。いいの?」
「いいンだよ無視しろ」


 投げやりに言い、爆豪くんが切島くんたちの方を振り返って親指を下へ向けた。


 遠くから響く「なんだよアイツ!」という声が笑い声と共に雨に溶けて消える。爆豪くんの口元に浮かぶ微かな笑みは、街灯の光で輝いていた。


 横顔に目を奪われていると視線に気づいたのか、爆豪くんがふとこちらを見やった。何も言わずただゆるりと目を細め、その仕草に胸の奥で温かい何かが広がっていく。


「き、切島くんたちと飲んでたんだ」
「あー。まあな」


 また前を向いた彼の横顔がどこか柔らかい。


「相変わらず仲良いね」
「別に良くねえわ」


 その割に、随分と楽しそうだったけど。そう心の中で思いながらも口には出さないでおく。


「てかテメェもっと傘こっち寄せろや。俺が濡れンだろ」
「勝手に入ってきて文句言わないでよ」


 爆豪くんは傘の持ち手を掴むと、そのまま自分の方に引き寄せた。


「ちょっと!濡れる!」
「うるせえな」
「お、横暴……」


 軽口を叩き合うたびに同僚だった頃の記憶が蘇る。胸の奥に灯る懐かしさが、寂しさを和らげる。


 緩みかけた口元を引き締めて、傘を彼の方へそっと寄せた。


 偶然とはいえ、この状況が夢のように思えてならない。爆豪くんと肩を並べて歩くことになるなんて。


 駅からどんどん離れていってるけど、戻らなくていいのだろうか。


「おい」


 爆豪くんが前を向いたまま、声をかけてきた。


「家どっちだ?」
「え、あっちだけど……」
「じゃあそっち行けや」


 驚いて顔を上げると横顔が雨に濡れて淡く光っていた。


「家についてくるの?」
「はあ? 変な言い方すんな」


 舌打ちしながらも、どこか気まずそうに目を逸らす彼の姿にくすりと笑みが漏れる。


「冗談だよ。送ってくれるんだ」
「傘ねえと困ンだよ、俺が」


 借りて帰っからな、と言葉はぶっきらぼうでもその歩調は私に合わせられていた。さりげない気遣いが心を温かく満たしていく。


 爆豪くんは、変わらないな。


 言葉よりも行動で示す不器用な優しさ。愛おしいと気づいてから彼の一つ一つの仕草が胸に沁みる。


 肩が触れ合うほどの距離に、爆豪くんがいる。ぬくもりが伝わってきそうなその近さに、さらに鼓動が速まるのを感じる。


 そっと盗み見ると、爆豪くんと視線がぶつかった。バチリと火花が散るような感覚が胸を走る。


「ンだよ」
「いや爆豪くんの方がこっち見てたよね?」
「見てねえ」
「えぇ……」


 車が私たちの横を通り抜けていくたび、ヘッドライトの光が雨粒を照らして煌めく。その光に彼の髪が照らされ、淡く輝く様子はまるで映画のワンシーンのように美しく目に映った。


「……久しぶりだね。独立するとほんと顔合わせなくなるね」
「あ? あー……そうか? そんな経ってねーだろ」


 爆豪くんは前を向いたまま、気のない返事をする。多忙な爆豪くんにとってはこの半年はあっという間で気にする余裕もなかったのだろう。


「その興味無い感じが懐かしいな」
「懐かしいって、たかが半年だろ」
「私にとっては長かったよ。同僚じゃなくなったら何も接点無くなるんだもん」


 ふふっと笑うと、爆豪くんは僅かに眉を寄せ不機嫌そうに視線をそらした。


 爆豪くんは雄英高校を卒業後、ジーニアス事務所でサイドキックとして活躍していた。しかし、彼の実力と存在感はそこに留まるものではなく、独立という形でさらに飛躍した。


 事務所設立のニュースは瞬く間に広がり注目を集めた。ニュースやSNSで彼の名前を目にしない日はない。


 テレビや新聞で彼の姿を見るたびに、その活躍に嬉しさがこみ上げる。けれど同時に、彼が遠い存在になってしまったような切なさも胸をよぎる。こうして並んで歩くとあの頃に戻ったようで、心が柔らかくほどけていく気がした。


「元気そうで良かった」


 小さな呟きは雨音に溶けて消えていった。


 鼻筋の通った端正な顔立ちや鋭い眼差しは変わらないが、頰から顎にかけてのラインが以前よりも引き締まったように見える。


 爆豪くんの存在を強く感じて、少しだけ距離を取ると腕を軽く掴まれた。


「もっと寄れ」
「えっ」
「傘から出ンなや」


 爆豪くんの視線は相変わらず前を向いたまま。けれど、掴まれた腕の感触が熱を持って伝わってくる。


「……うん」


 おずおずと身を寄せる。肩がわずかに触れるたび心臓の鼓動が強まる。


 傘の下に漂うのは雨の湿った香りに紛れる彼の微かな匂い。どこか懐かしく、それでいて胸をざわつかせる香りが鼻をかすめる。


 熱を持つ顔を見られたくなくて視線を下に落とし、足元の濡れたアスファルトを見つめた。


 傘に打ちつける雨音だけが二人を包む。静寂は心地よいはずなのに、爆豪くんと肩を並べて歩くというこの非日常的な距離が逆に落ち着かない気持ちを呼び起こす。


「テメェは」


 突然の声に、はっとして顔を上げる。絡めとる強い視線は逃げ場を与えず静かに燃えているように感じられた。


「変わりねえんか」


 雨音に紛れて、それでもはっきりと響いた声。その響きが胸の奥にそっと触れる。鼓動が一拍早くなるのを感じながらも、何事もないように口を開く。


「……うん。いつも通りかな」
「あっそ」


 それだけ言うと、また視線を前に戻してしまった。


 しまった。


 せっかく爆豪くんが話しかけてくれたのに、ありきたりな返事しかできなかった自分がもどかしい。


 もっと気の利いたことが言えたら。そう思えば思うほど言葉は喉の奥で絡まり、踏み出すべき言葉が遠のいていく。


 “いつも通り”なんて言ったけれど本当は違う。すごく寂しい。


 独立すると聞いた時、心が少しだけ揺れた。彼は誰かを誘うのだろうか。サイドキックとか……事務員とか。けれど、結局彼は一人で事務所を立ち上げたと聞いた。


 期待なんてするつもりはなかったのに。ほんの少しでも可能性を思い描いた自分が恥ずかしくなる。


 じわりと胸の奥に広がる苦い気持ち。打ち付ける雨音がその感情を余計に鮮明にさせる。


「……爆豪くんは」
「あ?」
「あ、いや。なんでもない」


 思わず口をついて出そうになった言葉を抑え込む。言え、と促すような視線に気圧され、恐る恐る口を開いた。


「新事務所は順調?」
「ンなもん見りゃ分かんだろーが」
「そうだよね。テレビで活躍してる姿、いつも見てます」


 わざとらしく丁寧に言ってみせると、彼は露骨に舌打ちをした。そうやって無意識に距離を測ってしまう自分が嫌になる。


「……困ってること、とか、ない?」


 私が力になれることなんてないかもしれないけど、と付け足すと爆豪くんの視線が私に戻された。


――余計なことを言ったかもしれない。


 胸の奥がじわりと疼く。


 私は彼とはもう何の関係もない。ただの元同僚。それでも、諦めきれない何かが心の片隅に残っている。
 細い糸でかろうじて繋がっているものを手放せずにいる自分がいる。


 言葉が途切れた後の沈黙が重く降り積もっていく。少しずつ、心の隙間に入り込んで不安を育てていく。
 ふと顔を上げると、見慣れたマンションが目に入った。


 ああ、ここまでか。


 雨は小降りになり、傘に落ちる雫の音もほとんど聞こえなくなっていた。


「もう着くからここでいいよ。傘はこのまま使って」


 返さなくていいから――


 そう告げて、そっと傘を爆豪くんのほうへ寄せたその瞬間、大きな手に腕を掴まれた。


「えっ……」


 驚きに瞳を見開き、思わず顔を上げた。そこには夜の闇を映し込んだ赤い瞳があった。


 爆豪くんはじっとこちらを見つめていた。雨の冷たさとは対照的に、その瞳にはどこか熱が宿っているようで、私の呼吸は一瞬で浅くなる。


「ある」


 唐突に告げられた言葉に、思わず瞬きをする。


「へ?」
「困ってること」


 低く、静かな声だった。


 鼓動が耳元で強く響く。彼の目から逃れられないまま、何かを探るように見返した。


「し、仕事のこと?」
「ちげーわ。順調だっつったろ」
「じゃあ……」


 問いかけようとして、言葉を飲み込んだ。


 爆豪くんが何を言おうとしているのか、知りたいのに知りたくないような、そんな矛盾した思いに囚われる。


「鈍感女」


 小さく息を吐き出し、掴んでいた腕をゆっくりと離した。その余韻だけがじんわりと肌に残る。


 何を言ってるのかわからない。


 ぐるぐると思考を巡らせていると爆豪くんはポケットからスマートフォンを取り出した。


「連絡先を教えろ」
「え?」
「早よしろ」
「あ……うん」


 爆豪くんの真意は掴みかねるが、その強い眼差しに気圧され戸惑いながらも流されるままに連絡先を交換した。


「よし。連絡すっから、来週メシ行くぞ」
「なんで?」


 反射的に問い返してしまった。思いがけない誘いに心が追いつかない。爆豪くんはわずかに眉を寄せ、呆れたようにため息をつく。


「困ってることねえかって、おまえが言ったンだろーが」
「言ったけど……。え? それでご飯行くの?」
「おー」
「なんで!?」
「ったく。それしか言えねーのかよ」


 ぽかんと口を開けたまま固まる私を爆豪くんがちらりと見やる。その視線が妙に落ち着いていて、どこか余裕さえ感じられた。スマートフォンを無造作にポケットへしまい、ふと傘の下から私を見下ろす。


 一瞬。その口元が不敵に歪む。


 この目、知ってる。


 不意に記憶が蘇る。いつの頃からか爆豪くんが見せるようになった視線。


 熱情を帯びた目に見覚えがある。以前は気づかなかった。けれど確かに、それを何度も見た。


「おまえも困ってんだろ」
「な、何が?」


 息を詰め、絞り出した声が頼りなさげに宙を彷徨う。爆豪くんの言葉の意図を掴みきれず、ただ彼の瞳を見つめ返すことしかできなかった。


 立ち尽くす私をよそに、爆豪くんは「じゃあな」と短く言って、傘からするりを抜け出した。


 気づけば雨は上がっていて、街灯の光が濡れたアスファルトに淡く反射している。


「ちょっと待って!」


 咄嗟に声を上げると、爆豪くんが首だけを振り返る。


「寂しくて困ってますって顔に書いてあンだよ。ばあーか」


 爆豪くんの唇がどこか愉快そうに、それでいて柔らかく弧を描く。挑発とも取れるその微笑みに胸がきゅっと締めつけられた。


 呆気に取られているうちに、彼は足早に夜の闇へと溶け込んでいく。


 その背中を見送りながら、心の奥底から静かに湧き上がる感情を抑えきれずにいた。


 たった一言で、心の内側を乱してしまう爆豪くんが、どうしようもなく憎らしくて、そして同じくらい愛おしい。

 雨上がりの夜の静寂。


 小さな灯火が静かに、確かに胸の奥で息を吹き返した。

 

   

close
横書き 縦書き