一部リライトしました
東さん、愛の対義語って何だと思いますか――
静かな声が問いかける。グラスの中の氷がカランと音を立て、微かな振動が空気を揺らした。
薄暗い店内、柔らかな照明が木目調のカウンターをぼんやりと照らす。東春秋はその一端に腰を下ろし、隣には後輩の苗字名前。
大学の研究室での遅い作業が終わると、彼らは決まってこの店に寄る。ここは大学の近くにある隠れ家的なバーで、マスターが趣味で始めたと言うその場所は名前にとってお気に入りの場所だった。
並べられた酒瓶が淡い光を反射し、色彩の美しい並びがどこか神秘的に思える。
だが、東にとって今重要なのはそんな店の雰囲気ではない。今しがた発せられた名前の言葉。その「真意」をつかもうと、彼の思考は自然と深まっていく。
「あいって……愛のことか?」
東は手にしたロックグラスを軽く揺らしながら答えた。琥珀色の液体が滑らかに波打つのを視線で追い、グラスを唇に近づける。その瞬間、熟成されたウイスキー特有の香りが鼻腔を満たし、次いで心地よい温かさが喉を通っていった。
隣の名前は、透明感のある所作でボトルを手に取ると、自分のグラスに静かにウイスキーを注ぎ足した。その動きには酔いの気配が微かに滲み出ているが、それを計算のうちに収めているようにも見える。一口含んだ後、ふう、と静かに息を吐いた。
「はい。エルオーブイイーの愛です」
わずかな舌足らずな口調に、東は肩越しに視線を向ける。その表情は真剣であるようでどこか茶目っ気を含んでいる。この後輩は本当に掴みどころがない。
「愛憎って言葉があるくらいだし……憎しみ、じゃないか?」
東は少し考えた末に答えを返す。だが名前は、どこか意味深な笑みを浮かべながら頷いた。
「そうですね、日本語としてはそれが正解でしょうね」
その含みのある返答に、東は微かな困惑を覚える。
この名前という女、どこか謎めいている。大学では後輩としてボーダーではエンジニアとして日々忙しなく働く彼女は、なぜかいつも彼を誘いこうして酒を酌み交わす。一年下とは思えないほどの落ち着きと大人びた雰囲気を持つ彼女の存在は、初対面のときから異彩を放っていた。
あの日の彼女の視線――それはまるで人を試すかのような冷ややかさがあったが、どこか不思議な魅力を伴っていた。
その瞳の奥にあるものを見極めたいと東は目が離せなくなった。だが、知れば知るほど彼女の底知れなさは深まり、彼の好奇心は尽きることがなかった。
その興味はいつしか、言葉では表現しきれない柔らかな感情へと変わっていった。
東は考えを振り払うようにグラスに残ったウイスキーを煽る。アルコール特有の苦味が舌に広がり、芳ばしい香りとともに喉を流れ落ちる。何を考えているのだ、自分は――心の中でそう呟きながら、隣の名前に再び視線を向けた。
「でも、『愛の反対は無関心』と言った人がいるらしいです」
名前の言葉はふわりと漂い、バーの柔らかな空気の中で静かに響いた。意味深な発言を繰り返す彼女は、東の心を探るように楽しげな表情を浮かべている。
どこか無邪気でそれでいて挑発的な眼差しが印象的だった。頬は酔いでほんのり紅潮し、普段の彼女より感情が表に出ているように見える。
「どう思いますか、東さん」
潤んだ瞳でこちらをまっすぐ見据えながら問う名前。その目は艶やかで、何かを秘めたような光を宿している。だが東は視線を合わせるのを避け、わざと淡々とした口調で答えた。
「それはまあ……言い得て妙かもな」
愛するにしろ憎むにしろ、どちらも相手に対する強い感情が伴う。無関心というのは確かにその対極だ。
しかし、今この場でこの話を持ち出す意図は何なのか。名前の狙いを測りかねながら、東は目の前のグラスに手を伸ばす。氷で薄まったウイスキーを飲み干すと、わずかな苦みと甘みが喉を滑り落ちていった。
「じゃあ、私のこと、どう思ってますか? 無関心ですか?」
名前は身を乗り出し東との距離を詰める。その瞬間、ふわりと甘い香水の匂いが漂い鼻をくすぐった。
熱を帯びた肌がわずかに触れ合い、その体温がじわりと伝わる。
東は言葉を返せなかった。いや、返せないという方が正しい。普段の彼なら「冗談はよせ」と軽く流せたかもしれないが、今の名前にはそんな態度を取るのは危険だと本能が告げていた。
東春秋は彼女を好いていた。だからこそ、こんなにも近づかれれば心が乱れる。
理性を保とうと必死に自分を抑え込みながら、平静を装うことに全神経を注いでいた。
「ねえ、教えてくださいよ」
耳元で囁く名前の声。その吐息が触れるたび、胸の奥で心臓が大きく跳ねた。
「好きですよね、私のこと」
まるで悪魔の誘惑のような甘美な響きが脳髄に直接響く。思考が奪われ、言葉が出てこない。
東は震える声でどうにか返した。
「……何を根拠にそう思うんだ」
それだけ言うのが精一杯だった。これ以上踏み込まれたら何をしてしまうかわからない。そう感じているのに、彼女はその問いには答えず妖艶な微笑みを浮かべた。
「私、知ってるんですよ。東さんの気持ち」
東の頭が真っ白になった。心拍がさらに速まり体が熱を帯びる。彼女が続けた言葉が、耳に届く。
「ずっと前から気付いてました」
いつからだ。一体どうして――疑問が脳内をぐるぐる巡る。東は震える声で問い返すと、名前はますます楽しげに微笑んだ。
「最初からです」
「最初……?」
「初めて会った時、あなたは食い入るように私を見てたじゃないですか」
その瞬間、東は過去の記憶が鮮明によみがえるのを感じた。確かに、あの日の名前は他の誰とも違って見えた。彼女の纏う雰囲気に目を奪われ、それが一目惚れだったのかただの興味だったのかは定かではない。ただ、彼女に惹かれたことだけは事実だった。
動揺する東の腕に、名前の指が絡む。しなやかで柔らかなその感触に、東は息を呑む。
「やめろ」
東の低い声が名前との間の空気を震わせた。しかし、彼女は微笑みを浮かべながら首を傾げる。
「どうして? 嫌なんですか?」
柔らかな声に反して、その言葉にはどこか挑発的な響きがあった。東は息を整え、冷静を装いながら返す。
「飲み過ぎだ。後悔するぞ」
だが名前は微塵も動じる様子を見せず、さらに身体を寄せてきた。その体重が東の肩に預けられると、名前の吐息が首筋をかすめ、背筋にぞわりとした震えが走る。
「東さんこそ顔赤いですよ。お酒だけのせいですか?」
彼女の言葉が、重ねられる視線が、じわじわと理性を侵してくる。この場から離れなければならないと理解しているのに、身体は鉛のように重く動けなかった。彼女が東の腕を掴むその手を振り払うことすらできなかった。
「苗字、離れてくれ」
東は苦しげにそう告げた。だが名前は不満げに眉を寄せながら返す。
「どうしてですか?」
「頼む」
たった一言にすがるような思いで言葉を絞り出すと、意外にも名前はすぐに身を引いた。そのあっさりとした態度に拍子抜けした東だったが安堵もつかの間、名前が再び彼の肩を掴み、強引に顔を向かせた。
「なら、キスしてください」
「……は?」
唐突な言葉に、東は思わず間抜けな声を漏らす。名前はふっと笑みを浮かべながら続ける。
「キスしてくれないと、離れない」
その言葉には真剣さと茶目っ気が入り混じり、東をさらに困惑させた。
「お前酔ってるだろう」
「さあ、どうでしょう?」
名前の挑発的な返答に、東の胸の内は騒然としていた。こんなことは今までになかった。彼女がここまで積極的になるのはどう考えてもおかしい。このまま押し問答を続ければ、周囲にも迷惑がかかるかもしれない。そう判断した東は、無言で彼女の手を取り立たせた。
「行くぞ」
会計を済ませ店の外に出ると、冷えた夜風が二人を包んだ。火照った身体には心地よい温度で、東にとっては助け舟のようだった。少しは冷静になれるかもしれない――そう思いながら振り返ると、隣にいるはずの名前の姿が消えていた。
「苗字!」
名を呼び、辺りを見回す。すると、少し離れたガードレールの前で名前がしゃがみ込んでいるのを見つけた。慌てて駆け寄り、その肩に触れる。
「どうした?」
「すみません……ちょっと気持ち悪くなって……」
顔色は明らかに悪い。やはり飲み過ぎていたのだ。
東は彼女を支えながら立ち上がらせ、近くのバス停まで連れて行った。辺りは最終バスが出た後で、人影もまばらだった。冷たいベンチに座らせ自販機で買ってきた水を渡すと名前はそれを一気に半分ほど飲んだ。
東は隣に腰を下ろししばらく無言で過ごした。夜の街は静まり返り、遠くから車の走行音が微かに聞こえるだけだった。
ふと横を向くと、名前は俯いたままじっとしていた。髪が顔を隠し、表情は見えないが頬に手を当てたまま微動だにしない。
「大丈夫か?」
東の問いかけに名前は顔を上げた。その顔色は少し良くなっていたが、彼女の口から出た言葉は予想を裏切るものだった。
「……大丈夫じゃないので、東さんの家に連れて行ってください」
その声には冗談めいた軽さがなかった。本気なのか、酔いのせいか――判断に迷う真剣さが滲んでいた。東は一瞬、軽く流そうとした。
「何を馬鹿なこと言ってるんだ」
そう言いかけたが、彼女の瞳がこちらを真っ直ぐに捉えた。その視線に圧され、言葉が喉に引っかかる。名前の表情には冗談のかけらもなく、それが東の心を妙にざわつかせた。
「本当に具合悪そうだし、今日はもう帰った方がいい」
平静を装って返すものの、胸の奥で響く心臓の鼓動は止められない。このまま家に連れて行くなんて考えはなかった。いや、あってはいけないのだ。
彼女も酔っている。冷静な判断力を失っている可能性が高い。今の状態で何か行動を起こすのは間違いだ――東の理性がそう訴えかけていた。
なのに、どうして俺は──
「帰りたくないです」
名前の言葉は、東の考えを遮るように低く、けれどはっきりと響いた。その瞳には、どこか哀しげな光が浮かんでいる。
「あのな、そういうことは軽々しく口にするものじゃないぞ」
「私にとっては軽いことではありません」
「どういう意味だ?」
「言葉の通りですけど」
その瞳が東をじっと見つめる。まるで彼の本心を探るように、一切視線を逸らさずに。
吸い込まれそうな深い瞳の奥には、海底のような静謐さと同時に、何かを試すような揺らぎがあった。
──わからないんですか?
その無言の問いかけに、東は応えることができない。ただ彼女の瞳に吸い寄せられるように見つめ返してしまう。何かが胸の奥から引きずり出されるような感覚――理性の壁が少しずつ崩れていく。
「さっきははぐらかされちゃいましたけど、私のこと好きですか?」
名前が核心をつくように問いかけた。その声は静かだが鋭い。東は一瞬、言葉を失い内心の動揺が波紋のように広がる。それを隠そうと必死に平静を装いながら返す。
「待て、今はやめよう。酒が入っている時に言いたくない」
その言葉に、自分自身にすら言い訳をしている気がした。理性を保とうと必死になりながらも、名前の視線の中に、答えを求められている感覚を拭えなかった。
こんな風に追い詰められるなんて、想定外にも程がある。
普段の東なら、もっと上手に受け流せたはずだ。しかし、今回はあまりにも予測できない出来事が立て続けに起こり、どう対処すればいいのか分からなくなっていた。
冷静で状況を的確に把握し合理的に動くのが東のはずだった。それなのに、今は自分を見失っている。それほどまでに余裕を奪われていた。
「こんなこと、酔ってる時じゃないと聞けないですよ」
名前の声が、いつもの調子とは異なっていた。少し低く、どこか懇願するような響きがあった。その声色に東は心を揺さぶられる。
「東さんが私のこと、好いて下さっているんじゃないかと感じてました。でも、確信が持てなくて。だから飲みに誘ってみたりしました。でも、どんなに隙を見せても何も反応がなくて……勘違いだったのかなって。だから、もうはっきりさせてください」
その声がかすかに震えているのが分かった。名前は今まで見せたことのないほどの悲しさを纏っていた。その姿に戸惑うと同時に、申し訳なさが胸にこみ上げてくる。きっと彼女は大きな勇気を振り絞り、ここまで言葉を紡いだのだ。
普段の凛とした態度からは想像もできないほど弱々しく、繊細な姿。これほど追い詰められている彼女を目の前にして、東は逃げることなどできないと悟った。
大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。自分を奮い立たせるように立ち上がり名前の正面に膝をついた。そして、目線を合わせて真っ直ぐに彼女を見つめる。
「好きだ。初めて会った時からずっと」
その言葉を待ち望んでいたかのように、名前の瞳が一瞬で輝きを取り戻した。
まるで獲物を捉えた猫のように、暗闇の中でその瞳はらんらんと光っている。その鋭さに、東は抗う術を失った。
彼女の中に潜む美しさと危うさに、完全に魅了されてしまったのだ。
逃げられるはずがなかった。この美しく危険な存在に狙われてしまった以上、逃れる術など初めからなかったのだ。
ならば、潔くその牙に身を委ねた方がいいのではないか――そんな思いが、東の中に芽生える。
名前の顔がゆっくりと近づいてくる。鼻先が触れそうなほどの距離で、その動きが止まった。互いの吐息が交じり合うほどの近さで、名前の長いまつ毛が微かに揺れる。
その瞳には、熱に浮かされた東の姿が映り込んでいる。見つめられていると思うだけで、身体がまるで燃え上がるような感覚に陥った。
「私も好きです。東さんのことが、好きです」
甘く蕩けるような声が、夜の静寂に溶け込む。その一言に、東の心は完全に飲み込まれた。
もう、理性もすべて、彼女の前では無力だった。