一部リライトしました。
あーくそ、と心の中で舌打ちした。シャワーを浴びたばかりだというのに、すでにイライラが募る。
風呂上がりの一服を楽しもうと、煙草を取り出したものの箱は空っぽだった。買い置きもない。寝てしまおうかと一瞬迷いながらも、ビールも欲しいと思い直す。スマホ、財布、家の鍵を手際よくポケットに押し込み、ため息とともにアパートのドアを閉めた。
外に出ると、夜の帳が重く垂れ込め、周囲は一面の闇に沈んでいた。昼間は人で賑わう通りも、今は街灯が点々と光るだけで、人影はほとんどない。ひっそりと静まり返った空気に、かつて賑やかだった蝉の声も消え去っていた。八月も終わりに近づき、日中の熱気は少し和らいできたものの、夜の湿気はまだ肌に纏わりつくようだ。
コンビニまでは徒歩で十分強。歩き出すとすぐに背中にじわりと汗が滲み、Tシャツが不快に張り付いた。その感覚に思わず顔をしかめる。ただ歩いているだけなのに、気怠さと暑さが一層心を重くする。
暗い道の向こうに、コンビニのぼんやりとした灯りがようやく見え始めた頃、ジーンズの後ろポケットから、気の抜けた「ピロン」という音が響いた。足を止め、通知だけ確認しようとスマホを取り出すと、画面にはシンプルなメッセージが浮かび上がっていた。
――『起きてる?』
絵文字も装飾もなく、ただその一言。
送り主の名前を確認した瞬間、思わず立ち止まった。大学の同じゼミに所属している女子からだった。最後に彼女と会ったのは前期試験の最終日。「やっと夏休みだねー」と、嬉しそうに笑っていた彼女の顔が、鮮明に頭に浮かんだ。ゼミの情報交換を口実に連絡先を交換してはいたが、個人的なやりとりはほとんどない。会えば会話する程度で、ゼミの仲間と一緒に飲みに行ったこともあるが、こんな夜更けに気軽にメッセージを送り合うほど親しい関係ではなかった。
「なぜ俺に……?」
疑問が自然に湧き上がり頭の中をぐるぐると回る。
間違いなく、これは誤送信だろう。いや、もしかしたら何か用事があるのか?
一瞬迷った末、スマホの画面を見つめながら、『起きてる?』というメッセージに対して、『諏訪だけど。起きてる』と短く返事を打った。無視するのも気が引けたし、これで誤送信に気づくだろう。再びスマホをポケットにしまい、足を踏み出した。
コンビニの店内は、クーラーが効いていて涼しさが心地よく、体にまとわりついた汗が一瞬で引いていく。レジには男性の店員が一人、疲れたような声で「いらっしゃいませ〜」と、力のない挨拶を投げかけてきたが、そのままドリンクコーナーに向かった。缶ビールを二本手に取り、いつもと同じ銘柄の煙草の番号を店員に伝えて会計を済ませた。手ぶらで出てきたためエコバッグはなく、ビールをレジ袋に入れてもらう様子をぼんやりと眺めていると、ポケットからバイブレーションと着信音が伝わってきた。
袋を受け取りながらスマホの画面を確認すると、予想通りの相手からの着信だった。
「もしもし」
『もしもし、諏訪くん?苗字です』
コンビニを出て、応答ボタンをタップすると、静かな夜に溶け込むような落ち着いた声が耳に届いた。
「おう」
『急にごめんね、こんな夜中に』
「いや、別にいいけどよ」
コンビニの冷房で冷えた体が外気に晒され、夜の湿った空気がじわじわと肌にまとわりつく。シャワーを浴びたばかりの体は、再びじめじめとした不快感に包まれていく。スマホを耳に当てながら、来た道を引き返す足音が静かな通りに響いた。
『夏休みの課題レポートのことで、さやかにメッセージ送るつもりが間違えて諏訪くんに送っちゃったみたい』
やっぱり誤送信か。
通りがけの街灯がぼんやりとした光を落とし、足元をかすかに照らす。影は伸び、闇と光の狭間に飲み込まれそうな気配を感じながら無意識にスマホを持つ手に力が入った。
『ごめんね、びっくりしたよね』
「いや、間違いだろうなとは思ってたし」
軽く笑いながら「気にすんなよ」と返すと、電話の向こうでほっとしたような空気が伝わってくる。安堵の気配が微かに漂い、ふと心が軽くなった。
コンビニを離れたこの道は昼間とは違いほとんど人通りがなく、静寂に包まれていた。道端に咲く雑草が風に揺れる音さえ耳に届きそうだ。
ふと、苗字の言葉に引き戻される。「課題」という響きが頭の片隅に残り、夏休みの間にやらなければならないレポートがいくつかあることを思い出す。二ヶ月近くも時間があるからと後回しにしていたが、そろそろ手をつける時期かもしれない。
『あれ、もしかして外にいる?』
思考が飛びかけたところに苗字の声が再び現実を引き戻す。聞き慣れた声が耳に戻り、再び夜の道に意識を戻した。
「あぁ、コンビニに行ってて、今その帰り」
『なるほど、どうりで風の音がすると思った。諏訪くん、一人なの?』
「一人」
夜風が微かに頬を撫で、耳に残る風の音が静寂を切り裂くように響く。歩きながら淡々と答えた。袋の中で缶ビールが歩調に合わせてぶつかり合い、かすかな音を立てる。その音が夜の静けさを際立たせるように感じた。
『……じゃあ、家に着くまでお喋りしようよ』
「は?」
突然の提案に一瞬戸惑い、思わず歩みを止めた。通りの向こうで街灯が瞬くように明滅している。
『夜道を一人で歩くのは心細いでしょ』
「誰に言ってんだよ」
ふふ、と電話越しに軽やかな笑い声が聞こえた。小さくて柔らかな声はからかうような調子だが、不思議と嫌な気持ちはしない。むしろ、その音色が夜の孤独感を和らげてくれるようだった。
『それは冗談だけど、こうして話すこと今までなかったなと思って。あ、彼女いるんだっけ。こういうの困るかな?』
夜道を一人で歩くのが心細いわけではないが、確かに退屈ではある。道の両脇には静かに影を落とす木々が並び、空を見上げると星も見えない曇り空。湿気の重さが全身にのしかかる中、苗字との会話が何となく心地よく感じた。
あと彼女はいねえ。
***
コンビニからアパートまでの帰り道は、短い時間だったが話題が尽きることはなかった。ゼミの研究の話から始まり、趣味やアルバイトといったプライベートなことまで気づけばお互いのことを自然に話していた。
苗字が「ボーダーの人たちとは仲が良いの?」と聞いてきたので、風間の酔っ払いエピソードを軽くバラしてやった。これが一番ウケた。
『風間くんって酔ったらそんな面白い行動するんだね。意外だな〜』
「普段はムカつく奴だけどな」
そう返すと、彼女は笑い声混じりに「やっぱり仲良いんだね」と言ってきたが、俺は心の中であまり納得していなかった。
『ところで、もう二十分近く話してるけど、家まで遠いの?』
ふと時間を確認する。
二十分? もうそんなに話していたのか。
いつもならとっくにアパートに着いているはずだったが、無意識に歩調を緩めていた自分に気づく。話すのが楽しくて時間を忘れていたのだと悟ると、照れくさくなって「結構遠くて不便なんだよな」と適当に誤魔化した。
かっこわりぃ、と心の中で悪態をついていると、いつもの見慣れたアパートの外観が視界に入ってきた。
「もう、アパート着く」
『そっか。じゃあそろそろだね』
会話が途切れるのが名残惜しいと自覚した瞬間、心の中に小さな波が立つ。
これは予感だろうか、それともただの一時的な感情か。途切れることのなかった会話が初めて沈黙に包まれる。
二階にある部屋に向かい、錆びた鉄製の階段に足をかけた。
『また、諏訪くんとゆっくり話したいな』
「そうだな」
俺も同じことを思っていたから、自然とその言葉が出た。カンカン、と階段を登る音が夜の静けさの中で響く。
『……これ、社交辞令じゃないからね』
今までと違う声色に、一瞬息を詰まらせた。苗字の言葉が意味を持って響いてくる。
『じゃ、おやすみなさい』
「あ、」
返事をしようとした瞬間、彼女は電話を切ってしまった。心なしか、少し焦ったように感じた。
なんだ、これは。
アパートのドアの前に立ち止まり、彼女の言葉を何度も頭の中で反芻する。胸の奥にむず痒い感覚が広がっていく。まるで、背中をそっと押されるような気持ちだ。
スマホの暗い画面に映る自分の顔が、月明かりにぼんやりと反射して見えた。迷っている俺の姿がそこにある。
始まりはほんの小さなきっかけ。でも、きっかけだけでは何も進まない。駆け引きなんて、俺にはまだできるほどの経験はない。
──行っとけ!
高ぶる感情に押されるまま、スマホのメッセージアプリを開いた。時には、勢いで踏み出すことも必要だろう。
メッセージを送信したことを確認してから、鍵を回しドアノブを静かに回す。
遠くで、また蝉の鳴き声がかすかに聞こえてきた。夏はもう終わりだと思っていたけど、まだ終わっていないらしい。
湿気を含んだ夜風が肌を撫で、シャツの背中に汗がじっとりと張り付いているのが分かる。
でも、もうその不快感は気にならなかった。
いま胸にあるのは小さな期待と、少しの高揚感だ。