私の視界がゆっくりと傾き始める中で、小さなローテーブルから何かが静かに滑り落ちる様子が目に映った。荒船くんからもらった三色のボールペンだ。そのペンにはボーダーのロゴが施されており、彼が言うにはこれは市場には出回っていない非売品だという。
つい先刻までそのペンを使って課題に取り組んでいたが、テーブルを強引に動かした衝動で滑り落ちた。ペンを取り戻そうと手を伸ばすものの、まるで重力を忘れたかのように腕は空を舞い、届かない。
それはほんの一瞬の出来事だった。しかし、ゆっくりと倒れていくその感覚は、時間が永遠に引き延ばされるようで、私の全存在がその瞬間に吸い込まれていく。
そして、背中が冷たいフローリングに触れる瞬間、遠くで「カシャン」という音が鳴り響いた。
***
二年の時に同じクラスだった荒船哲次くんと付き合い始めて四ヶ月が経つ。彼は学校に通いながらボーダー隊員もしていて多忙だ。デートらしいデートは数えるほどしかない。三年に上がりクラスが分かれてしまい前ほど顔を合わせることが減ってしまった。しかし意外と言ったら失礼かもしれないけど、荒船くんはこまめに連絡をくれる。ボーダーを優先してねと伝えてはいるが空いた時間があれば僅かな時間であっても私と過ごそうとしてくれる。それがただの勉強会だとしても荒船くんと二人きりで過ごせるという特別な時間が嬉しくて胸の奥がじんわりと温かくなる。
高校が進学校ということもあり毎日の課題の量は多い。勉強会は主に図書館の自習スペースを利用しているが、お互いの家へ行く時もある。課題を終わらせた後は本を読んだりテレビを見たり自由に過ごすことが定番になりつつあった。友人関係だった頃の方が長いせいでなかなか緊張感のある空気にならないが、荒船くんは特に気にしていないようだ。
今日はお互い予定が空いてると以前からわかっていた。借りていたDVDを返さなければと考えていたため、ついでだから勉強会をしようと声を掛けてみた。場所は私の家。荒船くんからの承諾のメッセージに安堵しつつ、裏に秘めた思惑は胸に収めたままだ。
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部屋を照らすシーリングライトから私を隠すように覆い被さっている黒い影。その向こうには見慣れた格子模様の天井。
逆光で表情は読めないが、形のいい切れ長な双眸は穴が開いているように浮かんでいる。
――荒船くんが私を押し倒している。なんの前触れもなく。
いつもと変わらない様子だった。ローテーブルにテキストを広げて並んで課題をしていただけ。先に終わらせた荒船くんはスマートフォンを片手で操作しながら隣で静かに待っていてくれた。自宅に着いた時は西日が部屋の中へ差し込んでいたが、いつの間にか日は傾いていて紫色に暮れている。要領が悪く、思っていたよりも時間がかかってしまった。「終わったよ」と声を掛けて散らばったテキストを片付けていると、荒船くんの体がやけに近いことに気づいた。首をそちらへ向けると整った顔が目の前にあって思わず仰け反るが、右手首を取られてしまいそのまま肩を押される。あ、と思った時にはすでに体重がかけられていて、何の抵抗もできずにただ倒れていくしかなかった。
静寂が二人の間に漂う。
どういう状況なのか理解したが、動揺で言葉が出ず薄く口を開いたまま目の前の人物を見つめることしかできない。影がゆらりと動いて徐々に大きくなり、ぼやけていた表情が鮮明になる。
私を見下ろす瞳は獲物を狙うかのように鋭い。今まで見たことがない表情に身体が板のように硬直して喉の奥が震えた。喰われる、そう直感した。
「いや……」
咄嗟に口から零れたのは拒絶の言葉。しまった、と焦りを覚える。
聞こえた声に荒船くんは動きを止め、ゆっくりと瞬きして目を細めた。さっきまでの張りつめた空気がわずかに緩む。
「嫌か?」
利き手と逆の指で私の耳の後ろをするりと這う。かさついた指で触れられた箇所がピリピリと痺れるようだ。
「今日、親いないんだろ?」
予想していなかった言葉に目が丸くなり、強い緊張感が大きな波となって身体の奥から込み上げる。遠方に住んでいる親戚の法事に出席するため、両親は泊まりがけで出かけている。平日で学校があるからと私は留守番することになっていた。
荒船くんにはこの事は話していない。どうして知っているんだろう。
「嫌だったら、わざわざ今日誘わないよな」
扇情的な笑みを浮かべて制服のネクタイに指をかけるとシュルリと緩める。衣擦れの音を聞きながら段々と思考がクリアになっていった。
なんだ、最初から見透かされていたんだ。
動揺していたのが嘘だったみたいにスウ、と波が引いていくのを感じる。
荒船くんともっと深い関係になりたくて、いろいろと口実をつけて誘った。もしかして、予定がなかったのも今日の事を知っていたから?聞きたくても唇は柔らかな感触に塞がれていて声を発することができず、硬い前髪がチクチクと私の顔に触れてくすぐったい。求めていた行為に、体の奥深くから湧いてくるものを感じながら深くなる口づけを受け入れた。
ずっと欲しくて欲しくて渇いていた身体は砂漠に水がしみこむように、全身に潤いが戻っていく。