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【映画】国宝

あらかじめ覚悟はしていたのですが、やはり3時間ではとても収まりきらない内容でした。原作の濃度が10あるとすれば、映画はその3ほどでしょうか。映像作品としての完成度は非常に高かったものの、かなりの場面がカットされていて、特に俊介の悲しみや苦しみがまるごと省略されていたのは少し残念に思いました。

ただ、俳優陣の所作や演技は素人目にも非常に美しく、圧倒されました。歌舞伎の演技の中に、嗚咽をこらえるような繊細な感情表現が織り込まれていて、あの一瞬一瞬に心を掴まれました。まさに「化け物」という言葉が褒め言葉になるほどの凄みでした。

中でも吉沢亮さんの狂気の表現は本当に素晴らしく、完全に魅入られてしまいました。視線や声の抑揚だけで、人の心を鷲掴みにしてしまう迫力がありました。

一方で、徳次が序盤にしか登場しなかったのは、個人的にはとても寂しく感じました。原作では、喜久雄がどれほど孤独で、出自のことで悩んでいても、徳次だけはずっと味方でいてくれた存在です。長崎にいた頃から変わらず、喜久雄を支えていた徳次が、映像ではあまり描かれず、特にペルシャ絨毯のくだりでは「これは徳次のセリフだろ!!」と心の中で叫んでしまうほどでした。

ラストの展開は原作とは違っていましたが、どちらもそれぞれに良さがあり、私は好きでした。原作を読んでいたからこそ感じる物足りなさや惜しさはあるものの、映像ならではの美しさ、そして俳優たちの素晴らしい芝居を堪能できた、濃密な時間でした。

2025/06/28

【小説】吉田修一-国宝-

読み終えてしばらくのあいだ本を閉じたまま動けませんでした。文字になったものをたしかに読んだのに、これは本当に現実にあった話なのではないかという錯覚が抜けきらず、登場人物たちの息遣いや衣擦れの音が、まだそこにあるような気がして。

本作は、歌舞伎の世界に生きる男・喜久雄を主人公に、その人生を半世紀にわたって描いた長編です。幼い頃に運命的な事件に巻き込まれた喜久雄が、芸の道に引き寄せられるようにして歌舞伎の世界へと足を踏み入れ、そして「国宝」とまで呼ばれる役者に上り詰めるまでの過程が、息の長い筆致で丁寧に描かれていきます。

読み進めるうちに何より胸に迫ったのは、喜久雄の背負った「孤独」と「狂気」でした。彼は、役者という生き方の中で一度も自らを緩めることなく、ただひたすらに芸と向き合い続けます。それは世間的に見れば天才であり、尊敬の対象であるかもしれませんが、彼の内側には常にひりつくような孤独がありました。人の情や絆に対して不器用で、誰かを信じきることも、甘えることもできない。けれどそれゆえに、彼の舞台には神がかり的な凄みが宿ります。

特に印象的だったのは、彼が「血筋」に翻弄される場面です。歌舞伎の世界は芸の道でありながらも、同時に「家」の文化でもあります。血統という名の鎖が、どこまでも彼の足首を締め付けるのです。本人の資質や努力ではどうにもならない「生まれ」によって、評価も待遇も変わってしまう。そこに横たわる不条理と、そこから必死に飛び出そうとする喜久雄の姿は、伝統芸能という世界の光と影そのものでした。

けれど、この作品が単に芸道の苦悩を描いたものにとどまらないのは、喜久雄を見守り続ける存在――徳次がいたからだと思います。彼という男がいたからこそ、喜久雄は時に壊れそうになりながらも、ぎりぎりのところで踏みとどまれたのではないでしょうか。互いの距離感は常に微妙で、友情とも違う、言葉では定義できない何かでつながっている。それがまた、読んでいて非常にもどかしく、けれど切実に感じられました。

「国宝」とは何か。それは芸の極致にあるものかもしれませんし、人が生涯かけて守り抜いたものの象徴なのかもしれません。けれど私は、喜久雄がその身を削り尽くして舞台に立ち続けたこと自体が、彼の中の「国宝」だったのではないかと思いました。

重厚で、静かで、魂に火を灯すような一冊でした。読んでよかったと、心から思います。

2025/06/17

【小説】阿部智里-皇后の碧-

阿部智里さんの『皇后の碧』、読み終えたあと、しばらく呆然としてしまいました。
特設サイトも事前情報も何も見ずにページを開いたので、ふとした描写や台詞が後から意味を持って迫ってくるあの感覚は、まさに阿部作品ならではの魅力だと思います。

舞台は精霊たちの住む世界で、種族によって価値観も力の在り方も異なります。
けれど描かれているのは、決して遠い世界の話ではなく私たちにも通じる「信じること」や「守ること」の難しさです。
力でねじ伏せる統治と信頼で支える政治。
どちらが正しいとも言い切れないからこそ、それぞれの人物の選択が胸に残ります。

個人的に印象的だったのは、孔雀王がナオミにかけたある台詞です。
初読のときから少しひっかかっていたのですが、物語が進み、真相が明かされたときに「あの違和感は、ここに繋がっていたのか」と気づかされて鳥肌が立ちました。
張り巡らされた伏線が一気に結びついていくあの瞬間の快感は、本当に気持ちい。

そして、やはり語らずにはいられないのが終章です。
ここに来て、あのふたりの話を深掘りしてくるとは……反則すぎるー。
強くて冷酷に見えていた蜻蛉帝シリウスが実は理想を抱いた繊細な人物だったこと、そしてそれを誰よりも深く理解していたのが、宦官ジョウだったこと。
この事実が明かされるたびに、静かに感情が崩れていきました。

あの緑の瞳に執着していた理由が「この世で最も美しいものを知ってしまったから」という言葉には、本当に心を掴まれました。
どうしてそんなに綺麗で、でも切なくて、どうしようもなく遠いのだろうと。
終章のラストシーン、シリウスが怒りに燃え、ジョウが微笑む場面。
あの「ほらね」の一言には、すべてが詰まっていたように思います。

ジョウという人物は最後まで掴みどころがなく、賢くて狡猾で、でもどこか優しさを滲ませていました。
物語を通してずっと彼を怪しんでいたはずなのに、最終的には「この人がいなかったら、すべてが崩れていた」と思わされてしまうのが見事でした。
すべての種族が尊重し合える未来を願っていた彼の姿勢が、静かに、でも確かに貫かれていたことに、深く心を動かされました。

ナオミが贈り物についてジョウに相談するシーンで皇后にだけ適当に返した理由も、後になって「ああ、そういうことだったのか」と気づかされるのも巧妙でしたし、イリスが語る「本当に欲しかったものはすぐ近くにあった」という言葉にも、思わず胸が詰まりました。

もっと知りたいことがたくさんあります。シリウスとイリスの関係や、ジョウがどうして帝に仕えるようになったのか、二人の過去に何があったのか。
すべてが描かれていないからこそ、想像が広がってやみません。

2025/06/03

【小説】阿刀田高 -やさしいダンテ<神曲>-

『やさしいダンテ〈神曲〉』を読んで

FGOでダンテという人物に出会ったのが、そもそものきっかけでした。
キャラクターとしての彼は皮肉屋で詩的で、どこか孤高で……ゲームの中でも強烈な存在感を放っていました。
その彼が「神曲」という壮大な叙事詩の作者だということは、さすがに知ってはいましたが正直なところ内容についてはまったくと言っていいほど知りませんでした。
名前だけ知っている文学作品というのはたくさんありますが、「神曲」もその一つ。

そんな中、ふと目に留まったのが阿刀田高先生の『やさしいダンテ〈神曲〉』。
タイトル通り、まるで手を取って導いてくれるような優しい語り口に惹かれて手に取りました。
文学に対する敷居の高さを、そっと取り払ってくれるような一冊です。

本編――つまり「神曲」の内容に入る前に、阿刀田先生は丁寧に”土壌”を耕してくれます。
ダンテという人物がどういう時代に生き、どのような政治と宗教の渦に巻き込まれ、いかなる境遇の中でこの作品を生み出したのか。
それを理解するために先生自らがフィレンツェの町を訪ね歩き、そこに生きたダンテの気配を探していく描写がとても印象的でした。
「神曲」そのものは幻想的で宗教色も強いのですが、それを現実に引き寄せて感じられる導入があったおかげで物語の背景が立体的に迫ってきました。

「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」と進む物語の解説も難解な神学や歴史的な寓意を無理に詰め込むことなく、あくまで物語として読者が楽しめるよう配慮されていました。
ダンテの心の中にある怒りや悲しみ、諦めきれない想いや愛――それらが、詩の行間に込められていることを、阿刀田先生はやわらかく教えてくれます。
そして、彼が描いた地獄や天国が単なる幻想ではなく、現実に傷つき、追放され、孤独を抱えた詩人の魂の投影であることを、そっと伝えてくれます。

ダンテは、地獄を旅し煉獄をさまよい、やがて天国に辿り着きます。
その壮大な旅の果てに、彼は何を見たのか――阿刀田先生の語りを通して、その一端に触れることができたのは、本当に貴重な体験でした。

2025/06/01

【映画】名探偵コナン 隻眼の残像

2025年の劇場版コナン、『隻眼の残像』をようやく鑑賞してきました。
今年は櫻井さん脚本ということで張り詰めた空気と重厚な人間ドラマ、そして一筋縄ではいかない事件の構成力がすさまじかったです。

まず何より、長野県警組がめちゃくちゃ良かった……!
諸伏警部、あの人こんなにアクティブだったっけ!?というくらい動いてくれて、しかもハンドルを握る横顔がもう、絵になるどころじゃない色気で……髪を乱して追跡する姿に落ちた人、絶対多い。私もそのひとり。
夢(というか走馬灯)で描かれた、弟・景光の姿。
「生きていてほしい」という兄の願望が滲む描写が本当に切なくて、でもやっぱり……ああ、景光はもうこの世にいないんだなって、今回はっきり示されてしまって……あの夢は観たくなかった、でも観られて良かった、そんな複雑な想いで胸がいっぱいになりました。

そして、大和警部と由衣刑事のあの関係! 
相変わらず一筋縄ではいかないけど、今回は恋模様がしっかり描かれていて、互いに言葉にできない想いが募っていく様が切なかったです。
ラストの大和警部の「……あ?」って台詞、最高すぎた。
そのあとの二人がどうなるのか、本誌で続きが描かれることを祈ってます。

今回の小五郎おじさんも本当にかっこよかった。近年の劇場版コナンでは彼の存在感が相対的に薄くなっていた印象もありましたが、今回は名探偵・毛利小五郎としての貫禄をまざまざと見せつけてくれました。

そして、忘れてはならない映画オリジナルキャラクター、長谷部陸夫。
登場時はクセのある検事かと思いきや、まさかの内閣情報調査室(内調)の男だったとは……しかも、ただのモブじゃない。
あの落ち着いた低音ボイス、鋭い眼差し、余裕のある所作……色気もキャラの厚みも兼ね備えた逸材すぎて、完全にやられました。
しかも、CV:関智一。
関智一さんは私がいちばん好きな声優さんでして、もう声を聴いた瞬間に全身のスイッチが入ったというか、思考回路が「推す」以外の言葉を失いました。
どんなに冷静に見ていたとしても、あの声であのキャラを演じられたら堕ちないわけがない。

内調が絡むとなると、これは本誌逆輸入の可能性もあるのでは? 
いや、絶対してほしい。
あれっきりなんて勿体なさすぎる。

全体を通して、ただの事件解決にとどまらない「人間ドラマ」が強く印象に残る一本でした。
大切なものを失い、それでも前に進もうとする警察官たちの姿に胸を打たれっぱなしで、これから長野組を見返すたびに、この映画の情景が脳裏にフラッシュバックしそうです。
今年のコナン映画、大満足でした。
もう一回観に行きたい。円盤買う。

2025/05/10