indigo elegie

午前六時、雨、微睡みのなかで

 かたん、かたん。
 換気扇の回る音と、雨だれの音に混じって、かすかな物音。
 浮上する意識に促されて、重たい瞼を持ち上げる。視界が焦点を結ぶまでしばらく時間がかかり、ようやく映った景色に視線を動かすと、その先には窓際に据えられた小さな流し台が映る。流し台の横にはコンロが一つ置かれていて、その前に立つ人影が見えた。こちらからは後ろ姿しか見えないが、隣で眠っていた諏訪の背中だとわかる。
 諏訪はコンロの前で煙草を吸っているようだった。くゆらせた煙を換気扇に向かって吐き出し、そのたびに彼の肩甲骨が上下する。スウェットパンツはゴムが緩んでいてかろうじて腰に引っかかっているような状態だ。上半身は何も身につけておらず、剥き出しになった背筋から腰へとつながるラインが妙に艶めかしい。すぐそばで感じていた諏訪の体温を思い出して、胸の奥が甘く疼いた。
 時計を見ると午前六時を過ぎたところ。私も諏訪も今日は休みで起きる時間も特に決めていなかったけれど、それでもいつもより一時間以上早い目覚めだ。
 諏訪は私が目覚めたことに気づかず、ゆっくりとした動作で灰皿に吸い殻を落とす。手には煙草以外は何も持っていない。スマホや部屋で読んでる文庫本なども持たず、ただ黙々と煙草だけを吸っている。流し台の横に置かれた灰皿だけが目立って見えた。
 ここからは諏訪の顔は見えない。いま、諏訪は何を考えているんだろう。何を思いながら煙草を吸っているんだろう。覚醒し切ってない頭ではうまく考えることができない。諏訪はどちらかというと騒がしいタイプだけど、たまにすごく静かなときがある。まるで凪いだ海みたいに静寂に満ちた空気を纏う瞬間があって。誰にも侵されない領域のような気がして少し怖くなる。そういうときの諏訪はとても孤独に見えるのだ。踏み込むことができない、透明な壁の向こう側にいるみたいな感覚に囚われてしまう。
 今もそんな顔をしているのだろうか。それとも……?
 煙草の先端から細く立ち上る紫煙が換気扇へ吸い込まれていく。私の心にあるモヤモヤも一緒に吸い込んでくれたらいいのに。そうすればきっと楽になれるのに。
ふいに諏訪が振り返り、こちらを見た。目が覚めていると思わなかったのか瞼が大きく開いている。布団の中から顔を出しておはようと言うと、おう、と返事をして小さく笑った。
「わり、起こしちまったか」
諏訪はそう言うとまだ半分くらい残っているそれを灰皿に押しつけた。それからゆっくりとベッドの方へ移動してくる。
「ううん、たまたま」
「まだ寝てていいぞ」
 ベッドの端に座って布団をめくると私の隣にもぐりこんできた。焦げた匂いとともに諏訪の匂いがふわりと香る。素肌同士が触れ合って少し冷たい。腕を回して首元に顔を埋めるようにして抱きしめられる。馴染みのある香りに包まれて安心する。でもやっぱりどこか切なくもあって、その複雑な感情を持て余してしまう。
「あったけぇ」
 諏訪の声がくぐもった響きになって鼓膜を揺らす。私の身体の形を確かめるように両腕に力を入れたり緩めたりを繰り返している。さっきまでの静けさはもうどこにもない。冷えた体は温かさを取り戻していて、いつもと同じ諏訪の温度になっている。そのことにひどく安堵した。
「雨、降ってるね」
カーテンの向こう側はまだ暗く、窓の外には細かな雨音が響いていた。諏訪も同じように外の音に意識を向けた。
「だな。今日は一日こんな感じらしい」
「そっか……」
「どっか行きたかったか?」
「そういうわけじゃないけど。洗濯物乾かないなって思って」
「部屋干ししてればそのうち乾くだろ」
その言葉に頷く代わりに、諏訪の背中に回した腕に少しだけ力を込めた。諏訪と一緒ならそれでいい。瞼を閉じて彼に寄り添うと温かな掌が後頭部に触れて髪の間に指を差し入れてくる。遊ぶような動きをするそれが心地よくてまた眠ってしまいそう。でもせっかくだからもう少し起きていたくて、なんとか瞼を押し上げた。
 薄暗い室内。雨音だけが静かに響く部屋の中で二人分の呼吸音が聞こえる。顎を上げて諏訪を見上げると、諏訪もまたこちらを向いていて目が合った。瞼を重そうにしている私を見て目が細まる。
「眠いか」
「うん。ねむい」
舌足らずな声が出た私に、ふはっと笑って額に唇を寄せてきた。そのまま唇を塞がれて、何度か触れるだけのキスを繰り返していると脳が溶けていくような感覚になる。
「じゃ、二度寝すっか」
そして私の頭を自分の肩口に乗せるように引き寄せる。されるがまま、もぞもぞと動いて収まりのいい場所に体を落ち着けた。私の頭に頬を乗せて静かに呼吸する諏訪に合わせて息をする。
「すわ」
「ん?」
「先に起きたら、私も起こして」
煙草を吸う諏訪の背中が脳裏に浮かぶ。
「ひとりは寒いよ……」
 諏訪は小さく笑ったあとに、わかったと言った。優しい声で。
 雨だれのリズムに乗って私たちの呼吸が少しずつ混ざっていく。ひとつになれたらいいのに、なんて言ったら諏訪は笑うだろうか。笑われてもいいから言ってみようかと思ったけど、もう瞼を開けていられなかった。 
 眠りに落ちる寸前、諏訪が小さく何かを呟いた気がしたけれど、その言葉を聞き取ることはできなかった。

 

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