indigo elegie

予感の先に

 とにかく空腹だった。
 自業自得だけどお昼ご飯を食べ損ねてしまった。講義の合間に友達がくれたお菓子でしのいだものの午後の講義が終わった後はバイトへ直行するしかなくて、二十一時過ぎたこの時間まで何も食べていない。何か買って帰るかと思ったけれど、とりあえず駅裏をぶらついてみることにした。
 夜になって気温が下がり、日中は暖かかったのに肌寒い。カーディガンを着てきたけれど少し身震いした。居酒屋やカラオケ店などが立ち並ぶ通りは、仕事帰りのサラリーマン達の姿が多い。金曜日だからだろうか、どの店の前も賑わっている。
 ガッツリしたものが食べたくて、目を皿のようにして辺りを見回しながら歩いているとラーメンと書かれた看板が目に入った。こんなところにラーメン屋なんてあったっけ。いつも素通りしているから気にしてなかった。漂ういい匂いに、きゅるると胃袋が鳴った。
 ラーメン。今日一日の空腹を満たすにはピッタリだ。そう思ったら、足はその方向に吸い寄せられていた。
 店内の様子を窺おうと近づいてみたけれど、曇りガラスが貼られていて見えない。外観は大衆食堂といった雰囲気で暖簾は色褪せている。正直入りづらい。でも、食べたい……。
 そうだ、口コミサイトを見ればいいじゃないか。 きっとコメントと一緒にメニューや店内の写真が載ってるはず。スマホを取り出し、ブラウザを立ち上げようとした時だった。
「何してんだ?」
「え?」
 聞き覚えのある声に振り向くと、そこには同級生の諏訪洸太郎くんがいた。
「え、諏訪くん?」
「よお」
 予想外の人物の登場に驚いていると、彼はポケットに手を入れたままゆっくり私に近づいてくる。
 諏訪くんとは中学高校と同じ学校に通っていた。中学は三年間同じクラスで、さらに言えば小学校も一緒である。要するに幼なじみという関係なのだが、高校はクラスが離れ疎遠になっていた。たまに話すことがあっても挨拶程度で終わるような、そんな感じ。そして同じ大学に進学したもののキャンパスが別だったため全く会わなくなっていたが、まさかこんなところで再会するとは。
「久しぶりだな」
「うん、久しぶり」
 高校までは黒かった彼の髪は今は金髪になっている。ミリタリー柄の黒いシャツにカーキ色のパンツというラフな格好も相まってヤンキー感が増していた。
 最後に会話をしたのは確か卒業式の日だ。その時は「大学もまた同じだな」と笑い合ったのが約七ヶ月前。もう随分前のことに思える。
「で、ここで突っ立って何してんだ」
 さっきと同じような質問を繰り返す諏訪くん。どうやらラーメン屋の前で立ち止まっていた理由を知りたいらしい。まあ当然の反応だろう。
「バイト終わってそのまま帰ろうと思ったんだけどお腹が空いちゃって。でもこのお店がちょっと入りづらくて迷ってたの」
 そう言って目の前にあるラーメン屋の扉を指し示す。その瞬間、ぐぅーとお腹が鳴ってしまい慌てて押さえたが遅かった。諏訪くんの顔を見るとニヤリと笑われる。恥ずかしすぎる。
 諏訪くんはそのまま私の隣まで来ると、同じように店の中を覗き込んだ。やっぱり見えないよね、と眺めていたら突然ガラっと引き戸を開ける。暖簾が揺れて店内の明かりが漏れ出した。
「え、ちょっと」
 困惑しながら彼を見上げると、諏訪くんは私の方を見て口角を上げた。
「入ろーぜ」
 顎先でクイっと店内を指す。えっと……一緒に入るの? 二人で? 戸惑っている間にも諏訪くんはズカズカと中に入っていくから、慌ててその後を追った。
 いらっしゃいませー、空いてる席へどぞー。店員さんの声を聞きながら店内を見回す。カウンター席とテーブル席があり、それぞれ数人の客が入っていた。白熱灯に照らされた壁には手書きで書かれたメニューが貼ってある。私たちは奥のテーブル席に向かい合って座った。
「どれにするよ」
 諏訪くんは机の上に置いてあったメニューを手に取って私に差し出してきた。
「ねえ。いいの?」
「なにが 」
 質問の意図が分からなかったらしく、首を傾げている。
「一緒に入ってよかったのかなって。帰るところだったんでしょ?」
 私が一人で入れないと思って気を使ってくれたんだと思うけど、帰ってゆっくりしたいところを邪魔してしまったんじゃないか。遠慮がちに訊ねると手をひらりと振られた。
「俺もメシ食ってなかったし。気にすんな」
「そうなの?」
「ああ。それに久しぶりだしよ。近況報告とかしようぜ」
 そう言ってニッと笑う諏訪くん。や、優しい……。思わずジーンときてしまった。そうだった。昔からこういう人だった。ぶっきらぼうだけど優しくて、実は面倒見が良くて。小さい頃はよく遊んでいたのに、中学校以降はあまり話さなくなったけどやっぱり諏訪くんは変わらない。
「じゃあお言葉に甘えて。ありがとうね」
「おう」
 諏訪くんからメニューを受け取り開く。写真はついておらず文字だけが書いてある。シンプルだがそれがまた良い。どれも気になるけれど、ここはやっぱり豚骨ラーメンかな。あとサイドメニューの餃子とか。でも炒飯もいいかも。迷って悩んでいると目の前から視線を感じた。顔を上げると頬杖ついて私をじっと見つめていた。
「なに?」
「すげー真剣に選んでんなって思って」
「だって悩むんだもん」
 どうやらずっと見ていたらしい諏訪くんの言葉に不満げに答えるとふっと笑い返されてしまい、なんだか恥ずかしくなってきてメニューで顔を隠した。そんな私の反応に諏訪くんは楽しげだ。
「諏訪くんは決めた?」
「俺は豚骨ラーメンチャーシュー盛り」
「あ、私もそれにしようかなって思ってた」
「おっまじで? 他に何か頼むか?」
「餃子も食べたい」
「よし、決まりだな」
「うん」
 すんませーん、と諏訪くんが店員さんを呼んで注文を済ませる。お冷を飲みながら店内を見渡すと、外観と変わらず年季の入った造りだ。壁には染みもあるし、椅子やテーブルにも細かな傷やへこみがある。でもそれらが味を出しているというか、居心地が良い。なんだか落ち着く。
 カウンターの上にはテレビが置いてあり、プロ野球の中継が映っていた。アナウンサーの声と解説者の声が交互に聞こえてくる。試合は終盤のようで、九回裏ツーアウトランナーなし。点差は一点。バッターボックスには四番のベテラン選手が入っていた。それを眺めてる諏訪くんの横顔をちらりと窺う。間近で見る金髪はなかなか迫力がある。黒髪の時とは雰囲気が変わって見えた。ワイルドというか、男らしさが増したというか。
「なんだ?」
 私に見られていることに気づいのか、こちらを向いた諏訪くんと目が合う。
「髪染めたんだなって思って」
「ああ、これか」
 そう言って髪をつまむ。諏訪くんの指の間から金糸が滑るように零れていった。
「入学式で見かけたときはびっくりしたよ。誰かと思った」
「結構似合ってんだろ」
 諏訪くんは冗談めかして言う。自分で言っちゃうところが彼らしい。
「うん、かっこいい」
 正直に感想を述べてみたのだが、彼は虚をつかれたような表情をした。そう返されるとは思っていなかったみたい。
「そうかよ」
 頬杖をついていた手を口元に当てて目線を逸らす。その挙動が照れてる時の仕草だと分かってしまい、ニヤけそうになる口を押さえた。そういえばこんなやり取りは久しぶりかもしれない。懐かしいな。照れた反応も変わらないままだということに嬉しさが込み上げてきた。
 諏訪くんは話題を変えようと咳払いをして私の方を向く。
「そういやバイトって何やってんだよ」
「塾の講師だよ」
「先生ってことか」
「まあ、一応ね」
 個別指導型の学習塾で小学生を相手に勉強を教えている。週三回、午後六時から八時の間だけ。一生懸命頑張っている子たちを見ると自分も頑張ろうって思えるし、生徒の笑顔を見るとやりがいを感じている。諏訪くんは納得するように小さく何度か首を動かした。
「すげーな。俺は無理だわ」
「諏訪くん向いてそうだけどな」
「俺が?」
「うん。面倒見いいし。それに子供に好かれそうだよね」
「なんか舐められそうな気がすっけど」
「いやいや、案外良い先生になると思うよ」
「そうか〜?」
「うん」
「……お前は」
「え?」
 言葉が聞き取れず首を傾げると、諏訪くんはふいっと顔を背けた。そしてテレビの方へ向き直る。ちょうどホームランを打った選手がダイヤモンドを回っているところだった。テレビから歓声が上がる。その音に紛れて諏訪くんの声は掻き消され、何を言ったのか分からなかった。もう一度訊こうとしたが、お待たせしましたー! という元気な声とともに店員さんが料理を運んできた。テーブルの上に置かれた湯気の立つどんぶりからは食欲を誘う匂いが立ち上っている。
「うまそうだな」
 結局諏訪くんが何と言ったのかは分からなかったけれど、とりあえず食事に集中しようと割り箸を手に取った。いただきます、と手を合わせてからまずはスープを一口。熱々の汁が舌に広がり鼻腔へと抜けていく。濃厚だけどしつこくない。麺に絡ませて食べると美味しい。
「ん~っ!」
 美味しくてつい声が出てしまった。空腹だったこともあり夢中でラーメンを啜った。その様子に諏訪くんは呆気にとられたように目を丸くしていたが、やがて堪えきれないといった風に笑い出した。
「食いっぷりすげーな」
「だってもう本当にお腹空いてて」
「はは、だろうな」
 諏訪くんは笑いながらチャーシューを口に運ぶ。
「うめーな」
「うん。おいしい」
 弾んだ声が重なって、顔を見合わせてまた笑った。それから私たちの会話は途切れることなく続いた。近況報告から始まり、最近読んでる本についてなど取り留めのない話だけれど、ただこうして同じ時間を共有していることが楽しくて。空白の時間を埋めていくかのように話が尽きることはなかった。
 餃子も食べようと取り皿を手に取ったところで、どこからか振動音の音が響いてきた。どうやら諏訪くんのスマホが鳴っている。
「電話?」
「んー……」
 諏訪くんはポケットからスマホを取り出して画面を確認していたが、すぐにまたしまった。
「出なくていいの?」
「あー、あとでいい」
「お母さんとかじゃないの」
「ちげーよ」
 言いながら餃子を口に放り込んでいる。するとすぐにまた震え始めた。今度はさっきよりも長い。
「急ぎの用事かもよ」
 促してみるが、それでも諏訪くんは無視を決め込んでいた。だが、一向に鳴り止む気配がないことに諦めたようで「ワリ、出るわ」と深い溜息を吐きながら通話ボタンをタップした。
「なんだよ」
 彼の声に混ざって、相手の声がかすかに聞こえてくる。会話の内容まではわからないが、男性の声だということは分かった。
「ああ。とっくに本部出てる」
 視線が流れて目が合うと諏訪くんは片眉を上げてみせた。なんだか盗み聞きしているようだと思い、餃子に意識を向けるがどうしても耳に入ってくる。
 ぶっきらぼうな物言いだが嫌そうな感じはない。それどころか、どことなく楽しげな雰囲気すら感じる。相手は誰なのだろうか。諏訪くんは友達が多そうだし、きっと色んな人とつるんでいるのだろう。もしかしたら恋人もいるかもしれない。だとしたら私と二人きりで食事なんてしていていいのか。嫌がられたりするのでは――と想像を膨らませて一人で勝手に気まずくなってしまった。そんなことを思っているうちにも諏訪くんは相槌を打ちながら話を続けている。
「今から? いや、今日はいいわ」
 スマホを耳に当てたまま壁に掛けられた時計に目をやった。つられてそちらを見ると午後十時近くになっている。なんだろう、何かあるのかな。諏訪くんを見つめていると、困ったような表情を浮かべて頭を掻いている。
「もうメシ食ってるし。あー……一人じゃねんだよ」
 一瞬の間があった後で彼はそう答えた。そして少しだけ口角を上げる。その表情がどこか嬉しそうにも見えて指先からじわりと体温が上がる。諏訪くんの言い方に引っ掛かりを覚えて胸の内が波立った。
 私の小さな動揺には気付かずに、あーまあな、と歯切れの悪い返事をしている。
「うるせーわかってんなら聞くな。あ? 教えねーよ。待て、風間には言うなよ。めんどくせえから」
 電話の向こうの相手に何か言われて、慌てるように早口になった。それからしばらくやり取りをしていたが、やがて諦めたように「あぁ、明日行くから。わーった」と電話を切った。
 ふーっと大きく息を吐き出すと、スマホをテーブルの上に置いた。
「悪い、うるさかったよな」
「ううん」
 笑って首を振ったが、諏訪くんは少し決まり悪そうにしていた。もう一度謝ると、残りのラーメンを食べ始める。私もまた、止まっていた手を動かす。
「もしかして、ご飯誘われてた?」
「おう」
「断ってよかったの?」
「いーんだよ。明日会うし」
 それに、と付け加える。
「お前と一緒だしな」
 え、という短い声が口から漏れて、一瞬固まってしまう。諏訪くんはなんでもないことのようにラーメンを啜っている。きっと今の台詞に深い意味はなかったのだろう。昔馴染みと一緒に食事をしているだけだからそう言っただけ。そう言い聞かせるが、胸の奥底からじわりとした熱が生まれてきてそれが体中に広がっていく。嬉しさのような、恥ずかしさのような、自分でもよく分からない感情が湧いてくる。
「そっか」
 平静を装い短く答えたが、顔が熱い。動揺しているのがバレないように、視線を逸らしてラーメンを食べることに集中する。スープの水面には緩んだ自分の顔がうっすら映っていて慌てて箸でかき混ぜた。広がる波紋とともに、浮かんでいた表情も溶けて消えていく。
 諏訪くんがこちらを見ている気配を感じたが、私は気付かないふりをした。
 
 ***

 会計を終えて外へ出ると、冷たい空気が頬を撫ぜていった。ひゅうと吹き抜ける風に身を縮こませる。隣に立つ諏訪くんも同じように肩を震わせていた。
「だいぶ冷えてきたな」
「そうだね」
 見上げた空に浮かぶ月は満月に近づきつつあった。星はあまり見えないが雲もなく、夜道を照らす光は十分。お腹いっぱいになり充足感に包まれているせいか、寒さを感じてもそれほど苦にはならない。諏訪くんはズボンのポケットに両手を突っ込み背を丸めている。自分より高い位置にある顔を見上げると、ゆっくりと私の方へ顔を向けた。
「帰るんだよな? 送ってくわ」
「え、いいよ。自転車だし大丈夫」
「暗いし危ねえだろ」
「そんなに遠くないし、人通りも多いから大丈夫だよ」
 ご飯に付き合ってもらった上にそこまでしてもらうのは申し訳なさすぎる。諏訪くんだって早く帰りたいだろうし。しかし、納得いかないようでじっと見下ろしてくる。その目力に負けそうになるが、譲らない姿勢を貫く。
「……一人で大丈夫か? 」
「うん。大丈夫」
 心配してくれているのだろう。諏訪くんは優しいから。つい甘えたくなってしまうが、迷惑をかけるわけにはいかない。諏訪くんはしばらく何か言いたげにしていたが、結局何も言わずに後頭部をガシガシと掻いた。
「今日は本当にありがとうね。ラーメン美味しかったし。諏訪くんがいてくれてよかった」
「……おう」
 小さく呟くと、また黙り込んでしまった。気に障るようなことを言ってしまっただろうか。不安になって諏訪くんの顔を覗き込むと目が合った。何かを考えているような、それでいて迷っているような表情で私を見つめている。
「諏訪くん?」
 どうしたの、と続けようとしたところで諏訪くんが口を開いた。
「いや、なんでもねえ。気をつけて帰れよ」
「うん。じゃあ、またね」
 軽く手を振って、背を向ける。そのまま振り返らずに歩き出す。
 またね、とは言ったけど諏訪くんとはキャンパスが違うし、次に会うのはいつになるかわからない。後ろ髪引かれるような思いを振り切って、駐輪場へ足を進めた。
「なあ」
 一歩、二歩と足を進め、五歩目を踏み出したとき。背中に声がかかる。立ち止まって振り向けば、諏訪くんはまだそこに立っていた。街灯の光を背にして立つ彼の表情は影になって見えない。でも、私を見ているということだけはわかる。
「また、メシ行こうぜ」
 静かな声でそう告げられた。瞼が大きく見開く。
 それは、つまり。
 暗がりで見る諏訪くんの輪郭が滲んでいく。瞬きを繰り返し、クリアにした視界で言葉の意味を理解すればじわじわと喜びが広がっていった。社交辞令かもしれないし、深い意味はないのかもしれない。それでも、そう言ってくれたことが嬉しい。
 もちろん、と答える前に諏訪くんがこちらに近づいてきた。距離が詰まると、顔がはっきりと見えるようになる。口を尖らせ、眉間に力を入れた表情は怒っているようでもあった。
「俺と行くのは嫌なのかよ」
 拗ねたように言う姿がおかしくて、ふっと笑みがこぼれる。何も答えない私を見て、どうやら誤解させてしまったらしい。否定するよりも先に諏訪くんが不満そうに口を開く。
「笑うな」
「ごめん」
 笑いつつ謝ると、諏訪くんは息を吐き肩の力を抜いた。
「嫌じゃないよ。私も諏訪くんと行きたい」
 目を見ながら素直に伝える。すると、顔を逸らして「ならいい」と、首筋を掻いた。その耳がほんのりと赤く染まっているように見えたのは、きっと気のせいではないはずだ。熱を逃がすかのように諏訪くんが大きく息を吐き出す。再びこちらに向けられた顔には、照れくさそうな表情が浮かんでいた。
 じわじわと頬に熱が集まってくる。胸の奥がむず痒いような感覚にぎゅっと拳を握る。
「……次からは自転車置いて行こう、かな」
 ぽつりと呟くと、諏訪くんは目を丸くした。一緒に帰りたい、という意図は伝わったようですぐに目を細め、唇の端を持ち上げた。
「おう。そーしろ」
 ニヤリといたずらっぽく笑う諏訪くんにつられる。きっと私は今、締まりのない顔をしているに違いない。
 わずかに芽生えた甘い予感に心臓が小さく音を立てた。それはまだ、些細で小さなものだけど。確かな温かさを伴って鼓動を打つ。
 小さな熱は静かに緩やかに、だけど確実に育っていく。

 

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