indigo elegie

キス禁止令

 禁止されると途端に欲しくなる――確かカリギュラ効果と呼ばれる心理現象だったか。
 昔、過激な描写により一部地域で公開禁止となった映画が、かえって人々の関心を集めたという逸話から名付けられたものだ。
 人間の心理は面白いもので、さほど意識していなかったことも禁止されると途端に気になってしまう。
 開けてはいけない箱を好奇心で開けてしまったパンドラ、中を覗かないでと言われていたのにもかかわらず襖を開けてしまった鶴の恩返しの老夫婦、神話や御伽噺からわかるように人間の性は昔から変わらねえんだな。

 なんて、そんなことを考えながら隣に座っている恋人を盗み見る。二人掛けのソファに並んで座り、俺が貸した推理小説を真剣な表情で読んでいる。
 西に傾いた陽射しが薄いカーテン越しに部屋に差し込み、細かな埃が光の中を舞っている。その柔らかな光がこいつの横顔を照らして、長い睫毛が頬に小さな影を作っていた。
 俺の視線はただ一点、こいつの唇だ。
 薄紅色に輝くその小さな唇に、どうしようもなく惹きつけられてしまう。

 俺は今『キス禁止令』を出されている。

 事の発端は四日前、大学の講義室で会った時にやたら不機嫌な顔をしていた。いつもなら俺を見つけると軽く手を振ったりするのに、その日は机に頬杖をついて憂鬱そうに窓の外を眺めている。
 理由を聞くと『口内炎ができた』だと。しかも舌の先にできたから喋る度痛いしご飯の時なんてもう最悪、と今も痛いのだろう、眉間にしわを寄せて顔を歪ませている。
 そりゃ大変だと軽く返すと気の強い瞳がさらに鋭くなり俺を睨む。やべ。
「本当に痛いんだからね」
「わぁってるよ」
「わかってない。この辛さは洸太郎にはわからない」
 うわぁと大袈裟に声を上げながら机に突っ伏してしまった。泣き真似なのはわかっているが、こうなるとしばらく機嫌が直らない。いつもだったらお菓子を奢ったりしてご機嫌とっていたが如何せん、食べるのも辛いらしい。
 どうしたもんかと思案していたら顔は伏せたまま何か言ったのが聞こえた。聞き取れなかったので「あ?」と顔を近づけると、
「口内炎が治るまでチューしないでね」
 今度ははっきりと聞こえた。机に顔を伏せたまま、耳まで真っ赤にして言うこいつが妙に可愛くて、思わず笑いそうになったのを必死に堪えた。
 とまぁ、こういうやり取りがあり今日に至る。
 今までだって一週間以上会わない日もあったし、キスできないくらいなんてことはない。俺は特別キスが好きというわけではないし全く問題ないな。

 そう思っていた。その時は。
 正直に言う。今めちゃくちゃキスしたい。
 なんなら二日目からそう思っている。
 
 この四日間は割と顔を合わせることが多く、大学で講義を受けている時、学食で痛い痛いと零しながらメシ食ってる時、諏訪隊作戦室でおサノと雑誌を見てる時、ついこいつの唇に目が行ってしまう。
 話している時の口の動き、笑った時の唇の形、考え事をしている時に軽く下唇を噛む癖――今まで気にしていなかったのに。
 まんまとこの心理現象にハマってしまっている。
 俺の内心の葛藤など知る由もなく、「今日は夜勤だから」と俺の部屋に遊びに来て時間潰しに以前から読みたがっていた本を貸した。
 泊まらないのかよ、と残念に思ったが仕方ない。でも今は誰の邪魔も入らない二人きりだ。
 部屋にはエアコンの低い唸り声と、時折ページをめくる音だけが響いている。
 少しぐらい……ダメか?
 口内炎ってどれくらいで治るんだ?
 でも「口内炎治ったか」と聞くと、こいつキスしたいんだなって思われるよな。その通りなんだが、しょうもない自尊心が聞くことを邪魔する。

 集中できなくて手に持ってる小説はただめくるだけになってしまっていた。活字が頭に入ってこない。時計を見るとあと十分もすればこいつは出て行かなければならない。
 針の進む音が妙にはっきりと聞こえて若干の焦りを感じつつ、再度隣へ視線を向ける。
 俺がこんなこと考えてるとは気づいていないだろう、変わらず集中して本を読んでいる。たまに「へえ」とか「うそでしょ」とか小さくつぶやきながら、物語の世界に没頭している様子が伝わってくる。

 この小さくて柔らかい唇に触れて、こいつの息遣いを感じたい。温もりを共有したい。
 そんな想像をしていると血が集まりそうになるがなんとか制した。今すぐ本を奪って口付けしたいが、読んでる途中で遮るのは迷惑でしかないとわかっているのでできない。
 それに、こいつがこんなに夢中になって読んでいる姿を見ているのも悪くない。普段は活発で少しおてんばなこいつが、こうして静かに本を読んでいる時の表情は穏やかで、見ていて飽きることがなかった。
 でも、やっぱりキスしたい。
 悶々としながら今日はこのまま終わりかと諦めモードに入った時、こいつのスマホから通知音がした。その音に反応して読んでいた本から顔を上げて画面を確認している。どうやら出かける時間に合わせてアラームを設定していたようだ。
「そろそろ準備しなきゃ。これ、また続き読ませてね」
 ソファから身体を起こし閉じられた本を俺の方へ差し出してきた。夕陽に照らされた彼女の顔は少し上気していて、読書に集中していた余韻がまだ残っている。

 あ、チャンス。

 手を伸ばして本ではなく細い手首を掴みそのまま引っ張る。顔が近づいてきて目を丸くしたこいつの唇に顔を寄せた。
 こんなに近くで見るこいつの顔は普段気づかない小さなそばかすや、長い睫毛の一本一本まで見えて胸の奥がきゅっと締め付けられる。
 あと少しで触れそうな時、空いていた手で俺の口を勢いよく押さえた。

 痛え。バチンて音がしたぞ。

「……んだよ」
「キスしないでって言ったでしょ。まだ治ってないの」

 息がかかりそうな距離で見つめ合う。こいつの瞳の奥に小さく俺が映っているのが見える。

「舌入れたりしねぇよ」
「それでもダメ」
「くっ付けるだけもダメなのか」
「ダメ」
「頬は?」
「ダメ」
「なんでだよ」

 顔は至近距離のまま押し問答するがお互い引かない。こいつの吐息が俺の頬を撫でて、それだけで心臓の鼓動が早くなる。
 ここまで来たら絶対キスしてやる。半ば意地になり押し付けられた手を引き剥がそうと掴むと、小さい声で「だって……」と聞こえた。

「だって少しだけでもキスしたら、もっと欲しくなるもん」
「……」

 今なんつった?
 めちゃくちゃ可愛いセリフが聞こえたんだが。
 言った本人は頬を赤く染めて顔を逸らしてる。
 普段は俺の手を引いたり肩にもたれかかったり、スキンシップは割と積極的な奴だから、こんな風に恥ずかしそうにする表情は珍しくてじっと見つめてしまった。赤くなった耳たぶまで愛おしく感じる。

「私だって我慢してるんだから洸太郎も我慢して」

 手を離し気まずそうに言う彼女に、今度は俺が自分の手で顔を覆った。

「おめー……それ逆効果だろ……」

 なんだよ。キスしたいって思ってたのは俺だけじゃなかったのかよ。
 嬉しさと恥ずかしさで顔が熱い。部屋の空気まで熱を帯びたような気がして、エアコンの風が妙に生温く感じられた。
 このまま抱きしめたい衝動に駆られるが理性でグッと抑え、こいつがそう言うなら諦めることにした。
 俺だって困らせたいわけじゃない。

 と思ったが、この状況で何もしないのはやっぱり無理だ。

 衝動に抗うことなく瞬間的に肩を捉えた。Tシャツの襟元に指をかけ、少しだけ引き広げる。覗いた肌は淡く光を宿したような白さで、ためらいもなく唇を落とした。
「っ……な、何して……!」
 思わず押し返そうとする手が肩にかかる。その力は弱く、揺らぐほどでもない。
 逃れようとしたのは最初の一瞬だけですぐに抗うことをやめ、小さな震えだけが全身に残った。
 そっと音を立てて唇を離す。その跡には、熱を宿した紅の印がくっきりと残っていた。
 顔を上げれば、やはり彼女は怒っている。いや、怒りよりも戸惑いの方が濃い。目元まで朱に染めながら、精一杯の強がりで睨んでいる。

 だからそれはやめろって。あーくそ、全然物足りねぇ。

「……舌、治ったら覚悟しとけよ」

そのときまで、俺のキス全部、取っといてやる。
泣くまで、身体中に――。

 

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